真光寺村(読み)しんこうじむら

日本歴史地名大系 「真光寺村」の解説

真光寺村
しんこうじむら

[現在地名]町田市真光寺町・真光寺・鶴川つるかわ

広袴ひろばかま村の北西にある。村内を東西に神奈川道が通り、黒川くろかわ(現川崎市麻生区)境に甲州道中に抜ける布田ふだ道が通る。真光寺川は北西から東方に流れ、広袴村を通って能ヶ谷のうがや村で鶴見つるみ川に合流する。真光寺という古刹があったので村名になったといい、今の観泉かんせん寺付近が寺跡という(風土記稿)。中世は小山田おやまだ庄のうち。建武五年(一三三八)五月二七日に足利尊氏の母上杉清子は甥上杉憲顕(鎌倉府執事)にあてたと推定される書状(上杉家文書)で、某僧都に与えた「おやまたのしんくわう寺」を没収されたのは不当であると述べている。


真光寺村
しんこうじむら

[現在地名]浦川原村真光寺

保倉ほくら川の支流、高谷たかたに川に沿う谷間に立地。北西は横住よこずみ村、南東はたに村が続き、東は峰を隔てて石橋いしばし(現安塚町)。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図では「御料所蔵田清左衛門扱真光寺村 下」とあり、本納二七石一斗四升二合五勺・縄高四八石四斗五升七合、家三軒・一二人。保倉川支流(高谷川か)右岸に描かれ、当村から支流を渡り、平山たいらやま(現牧村)・上横住村と経る道は、下横住村で直峰のうみね城下(現安塚町)へ向かう道に合流する。近世初頭の本願寺教如書状(専敬寺文書)によれば上横住村と当村の九日講中が小黒こぐろ(現安塚町)専敬せんきよう寺の取次で、ほか一〇講中とともに銀子一〇〇目を懇志として教如に納めている。


真光寺村
しんこうじむら

[現在地名]佐和田町真光寺

石田いしだ川の上流、標高九〇―一〇〇メートルほどの山裾と谷間に立地。西は山田やまだ村、東は平清水ひらしみず(現金井町)。村名は中世以来当村にあった真光寺によるが、もとは村上むらかみと総称されたという。真光寺の村名は文禄四年(一五九五)以後ともいう(二宮村志)。慶長五年(一六〇〇)検地帳(真光寺区有)によると、本苅三万二千九三五束一把刈・見出一千三五二束で、年貢額は二八九石余。「佐渡故実略記」によれば同九年の分米額は五〇五石七斗余。同検地帳によると村の中の家は村上むらかみ中・はやし中・喜十郎山中・中野なかの中に分れている。


真光寺村
しんこうじむら

[現在地名]糸魚川市真光寺

成沢なりさわ村の東、小富士こふじ(二四一・八メートル)の西麓に集落がある。西海にしうみ谷と早川はやかわ谷を結ぶ山道往来、真光寺越が東西に通る。正保国絵図では東光寺村とあり、高三九石余。天和三年郷帳では高七一石五斗余で、うち山高が一石四斗余、屋敷数は二三である。享保二年(一七一七)糸魚川藩の成立により、当村は糸魚川藩領二七石三斗余と、幕府領四四石一斗余に分けられた。


真光寺村
しんこうじむら

[現在地名]磐田市真光寺

長須賀ながすか村の東にあり、東は北島きたじま村。豊田とよだ郡に属する。正保郷帳に真光寺村とあり、高三二石余、幕府領。うち田方二一石余・畑方一〇石余、日損、新田ありと注記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android