真壁庄(読み)まかべのしよう

日本歴史地名大系 「真壁庄」の解説

真壁庄
まかべのしよう

筑波山北麓と加波かば山西麓の山根地帯から西、桜川右岸の台地東辺にかけて平安末期から存在した荘園で、常陸平氏一族真壁氏本領地として慶長期(一五九六―一六一五)に及ぶ。

寛喜元年(一二二九)七月一九日の平時幹宛将軍藤原頼経袖判下文(真壁文書)に「庄領」とあり、この時期までに真壁庄は立荘されているが、当庄と真壁氏の関係は平安末期にさかのぼる。真壁氏の始祖長幹は本宗多気直幹の子で、真壁六郎と称し(常陸大掾伝記)、承安二年(一一七二)頃真壁の地に館を造って入部したという(「真壁安芸守系図」伝正寺蔵)。長幹の入部は平国香以来常陸平氏本宗に相伝されてきた真壁郡司の職を継承してのことであった。しかし郡内には長幹入部以前に開発が進んだ地域も多く、別名として独自の領主・名主支配がみられ、弘安大田文には、「紀三郎名三丁二段 椎尾国貞十丁三段 同貞則十八丁八段 同助貞十一丁二段 光行五十四丁二段大 松久五十八丁一段大」などとある。光行みつゆき松久まつひさなどは比較的古く開発された別名である。郡司長幹の支配はこのような在地有力者の規制を受けつつ進行し、郡内一円の完全な私領化は難航したようである。正和元年(一三一二)七月二三日の関東下知状写(鹿島神宮文書)によれば、文治二年(一一八六)に幕府公事奉行人三善康信の弟康清が真壁庄の預所となり、弘安五年(一二八二)以後は懐島行定(三善氏女の息)と思われる二階堂氏流の人物が預所となったという。預所職の補任権を有した領家は不明であるが、康清などの立場からみて鎌倉将軍家と思われ、真壁氏は郡域北半の諸郷名の地を鎌倉幕府成立直前までに源頼朝に寄進して関東御領の一所とし、幕府成立過程で長幹は郡司からやがて郡地頭となって本領を安堵され、建久四年(一一九三)と伝えられる本宗多気氏断絶による影響も少なく御家人としての地位を保全したと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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