真崎仁六(読み)マサキ ニロク

20世紀日本人名事典 「真崎仁六」の解説

真崎 仁六
マサキ ニロク

明治・大正期の実業家 真崎鉛筆製造所社主。



生年
弘化5年1月13日(1848年)

没年
大正14(1925)年1月16日

出生地
肥前国佐賀郡(佐賀県)

経歴
佐賀藩士の子として生まれ、慶応2年(1866年)長崎遊学。明治1年に上京して汽船会社の書記となり、次いで同郷の政治家大隈重信の紹介で日本起立商工会社に入社した。11年社用でパリ万国博覧会に出席、そこで鉛筆の便利さに惹かれ、帰国後ただちにその製造研究に着手。はじめはすぐに芯が折れるなど失敗が多かったが、研究の結果、鹿児島県加世田の黒鉛と栃木県烏山の粘土、北海道のアララギが鉛筆作りに適していることを突き止めた。20年真崎鉛筆製造所(のちの三菱鉛筆)を興し、国産鉛筆の開発・製造を開始。以後、品質改良や製造機械の開発、鉛筆の普及に尽力し、34年には宮内省御用達に採用されるに至った。この時の記念として考案されたのが三菱のマークで、36年にはそれを商標登録した。37年には販売面で市川商店と提携し、真崎市川鉛筆株式会社を設立。コッピー鉛筆の開発・輸出や第一次大戦下の好況で大いに売り上げを伸ばすが、大戦後の不景気で市川商店と決裂し、大正10年には社は分裂した。のち大和鉛筆との合併を進めるが、実現間際に死去同社は太平洋戦争後に三菱鉛筆として再生・発展し、今日に至っている。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「真崎仁六」の解説

真崎仁六 まさき-にろく

1848-1925 明治-大正時代の実業家。
弘化(こうか)5年1月13日生まれ。明治元年上京。起立工商会社に勤務し,11年パリ万国博で目にした鉛筆の国内製造を決意。材料研究をはじめ製造機械の設計にも努力をかさね,20年真崎鉛筆製造所を設立。のちの三菱鉛筆のルーツとなった。大正14年1月16日死去。78歳。肥前佐賀郡出身。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の真崎仁六の言及

【鉛筆】より

…明治40年代には三越呉服店が積極的に輸入,宣伝し,新しもの好きの人々に喜ばれた。国産鉛筆は,井口直樹が1881年に手細工で仕上げて内国勧業博覧会に出品したものが最初で,86年には真崎仁六による工場生産が始まる(のちの三菱鉛筆)。明治期に最も多く鉛筆を使用していたのは郵便局で,輸入鉛筆を使っていたが,1901年に真崎仁六の鉛筆を逓信省が採用,これを契機に国産鉛筆への認識も高まり,機械化も進んで工業的になっていく。…

※「真崎仁六」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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