真鶴村(読み)まなづるむら

日本歴史地名大系 「真鶴村」の解説

真鶴村
まなづるむら

[現在地名]真鶴町真鶴

東と南は相模湾南東真鶴半島が突出し、北はいわ村、西は福浦ふくうら(現湯河原町)と接する。北西部を東西に土肥どい(熱海道)が通る。「吾妻鏡」治承四年(一一八〇)八月二八日条に石橋山合戦で敗退した源頼朝が「自土肥真名鶴崎船」、安房国へ脱出したことがみえる。「北条記」や「東国紀行」にも「真名鶴ケ崎」とあり、天正一八年(一五九〇)四月日の豊臣秀吉掟書(静岡県長津文書)には伊豆国として「まな鶴郷」と記す。

近世小田原藩領。寛永初期の村高一一一石余、家数一六九、うち名主一・かち一・舟方舟役八一・わき者八五(小田原領西筋村々高ノ帳)。寛文一二年(一六七二)村明細帳(県史四)によれば田はなく、畑五二町一反余、蜜柑年貢・正月の飾海老などを出し、廻船四三、丸木船三五、海士船一、天当船一、伝馬船一八、水夫一八七があり、渡世は廻船持・漁師・石切・水夫・運搬人夫などであった。

漁業はすでに永禄七年(一五六四)一一月一〇日の北条家朱印状(県史三)にみえ、「自岩・真名鶴、肴・同鮑・海老売買事」として精銭での取引を命ぜられ、また天正一〇年と推定される四月二〇日付の某書下写(県史三)に「まなつるのかつき衆之内、いかにも上手弐十人、明日廿一、三浦へ罷越、自美濃守(北条氏規)殿如下知、大のしむくへし」とあり、海人名人が三浦での鮑採りやその加工への従事を命ぜられている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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