日本歴史地名大系 「真鶴村」の解説
真鶴村
まなづるむら
東と南は相模湾、南東に真鶴半島が突出し、北は
近世は小田原藩領。寛永初期の村高一一一石余、家数一六九、うち名主一・かち一・舟方舟役八一・わき者八五(小田原領西筋村々高ノ帳)。寛文一二年(一六七二)の村明細帳(県史四)によれば田はなく、畑五二町一反余、蜜柑年貢・正月の飾海老などを出し、廻船四三、丸木船三五、海士船一、天当船一、伝馬船一八、水夫一八七があり、渡世は廻船持・漁師・石切・水夫・運搬人夫などであった。
漁業はすでに永禄七年(一五六四)一一月一〇日の北条家朱印状(県史三)にみえ、「自岩・真名鶴、肴・同鮑・海老売買事」として精銭での取引を命ぜられ、また天正一〇年と推定される四月二〇日付の某書下写(県史三)に「まなつるのかつき衆之内、いかにも上手弐十人、明日廿一、三浦へ罷越、自
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報