古代末から中世初頭には三浦半島を本拠地とした三浦一族の支配が当湾一帯に及んでいた。「吾妻鏡」によれば治承四年(一一八〇)八月一七日伊豆で挙兵した源頼朝の頼りとした兵力の主体は三浦氏と西相模の土肥一族であった。八月二三日の石橋山合戦に敗れいったん
頼朝が幕府を開いて後、鎌倉の地は大いに賑い、貞応二年(一二二三)四月一七日鎌倉へ入った「海道記」の作者は「数百艘の舟、ともづなをくさりて大津の浦に似たり」と
戦国期には湾および沿岸の諸村は小田原北条氏の支配下に組込まれた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
神奈川県南部の海湾。伊豆半島頸部(けいぶ)の真鶴(まなづる)岬と三浦半島南端の城ヶ島を結んだ線以北の海域を指し,南は相模灘に連続する。湾の南西部に相模灘から入り込んだ相模トラフの延長があり,最深所は水深1000mをこえる。この東側には深さ約500mの海底山脈があり,三浦半島との間は深さ約700mの海盆となっている。湾内には黒潮の分流が入り,沿岸礁や海底谷が好漁場となり,イワシ,アジ,サバ,ブリなどが漁獲される。湾岸には古くからの漁村があり,遠洋漁業基地三崎(三浦市)をはじめ東岸には長井(横須賀市),西岸には小田原,真鶴,砂浜海岸の湾奥部には大磯,須賀(平塚市)などの漁港がある。相模湾北東岸の湘南(しようなん)は明治中期以後保養地として,別荘地が形成され,しだいに住宅地化が進んだ。また,海浜は海水浴場地帯としても知られる。相模湾は1923年の関東大地震,30年の北伊豆地震の震源地も近く,地震活動の活発な場所でもある。
執筆者:伊倉 退蔵
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神奈川県西部の真鶴岬(まなづるみさき)と三浦半島南端(城ヶ島(じょうがしま))を結ぶ線から北の海域をいう。湾の西部に深さ1000~1200メートルの海渠(かいきょ)がみられるが、この海底地形は、相模湾の北西から日本海溝(伊豆諸島東部)に連なる相模トラフによるもので、1923年(大正12)の関東大地震のときにおこった海底の沈下現象は、この構造地帯の活動によるものとされている。沿岸潮流は相模川河口から三浦半島西岸へかけて東流、ついで南東流するものが強くみられ、境(さかい)川(藤沢市)、田越(たごえ)川(逗子(ずし)市)、森戸川(葉山町)諸川の河口部にはそれぞれ、東方また南方へ向けて砂州が発達している。こうした海底や沿岸地形によって天然漁礁は東部では西部よりも広く発達し、東部の全域がアジ、サバ釣りや延縄(はえなわ)の好漁場である。また、江の島南方沖合いや横須賀(よこすか)、三浦両市の西方沖合いはイカ釣り、小田原南方の片浦から真鶴岬の沖合いにかけてはアジ、サバ釣りの好漁場となっている。片浦と真鶴と三浦半島の西浦(横須賀市)ではブリの定置網漁業が行われ、真鶴はブリ網観光でも知られる。
[浅香幸雄]
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