小田原宿(読み)おだわらじゆく

日本歴史地名大系 「小田原宿」の解説

小田原宿
おだわらじゆく

[現在地名]小田原市浜町一―四丁目・本町一―四丁目・南町一―四丁目・栄町一―四丁目

宝徳四年(一四五二)四月二一日の関東管領上杉憲忠禁制(県史三)によれば、鎌倉鶴岡八幡宮の両界一切経以下修理料所として「小田原宿関所」が置かれている。小田原北条氏の支配下でも宿場的要素も併存していたと思われるが、北条氏発行の伝馬手形伝馬の継立のみ記して、宿場をうかがわせるものは見当らない。したがって本格的な宿場町の形成は、慶長六年(一六〇一)徳川家康による東海道伝馬制度の設置以後であり、とくに元和五年(一六一九)箱根関所の設置によって小田原宿の地位も高まり、しだいに宿場としての形が整ったと思われる。城下町が宿場町を兼ねた。

小田原用水上方(板橋口)から須藤すとう町・竹花たけのはな町を除く通町・脇町の道路沿いに貫流、飲用水としている。「永代日記」によれば、各町には番所が設けられ(明暦元年一一月四日条)、町家は一軒に松明三、箒一、行灯一の常備(慶安四年一二月晦日条)火の用心のための手桶の用意が命ぜられた(承応二年閏六月九日条)。宿泊施設は天保一四年(一八四三)東海道宿村大概帳に本陣四、脇本陣四、旅籠九五としており、その規模は江戸時代を通じて変わらなかったとみられる。

宿場町は町年寄三人に統轄され、その下に問屋・人足肝煎各二名がおり、補佐役に問屋代一、人足肝煎代一、帳附二、人足方手代二、人馬日〆役二、馬指六、帳面役三、同見習六、伝馬方働四、人足方賄人一一がいた(東海道宿村大概帳)。問屋場は上方の上の問屋と江戸方の下の問屋とに分れ、一〇日ごとに交替で業務を担当した(風土記稿)御引渡記録(県史四)によれば、その給米は問屋役が米七俵、人足肝煎役が米三俵であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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