矢崎村
やさきむら
[現在地名]平塚市岡崎
鈴川が東南へ流れ、谷川が東北部を流れる。東は豊田本郷村、西は大畑村、北は西海地村、南は寺田縄村に接する。大山道が東南隅を北に通る。また村内の中ほどを鈴川の流れに沿い平塚道が西進し、東方鈴川の北岸で分れ大畑村へ通る。村の東・西・北の三面および鈴川の南側に水田が広がる。
延宝六年(一六七八)四月の検地帳(内野文書)に村名がみえる。元禄一〇年(一六九七)旗本小林・森・曾谷・向坂・鵜殿領の五給、以後四―六給支配を経て文政一三年(一八三〇)旗本小林・森・曾谷・高井・大津領の五給。
矢崎村
やざきむら
[現在地名]安心院町矢崎
佐田川を挟んで久井田村の北東にある。東は且尾村、西は飯田村。村の西部字城に飯田城跡がある。応永三〇年(一四二三)四月日の新開庄宇佐宮神事諸役注進状(矢野文書)に「矢崎前橋十七名寄合渡之」とみえる。当地は宇佐宮神事行幸会の道筋にあたる。同会のとき佐田川に仮橋を架けて久井田と結んでおり、架橋は新開庄一七名の所役であった。東部にある旗巻井堰は行幸会還幸のとき旗を巻いた所といわれる。また旗巻の北の丘に釈迦堂があり、仁聞作と伝える釈迦如来坐像(現在は円照寺にある)を祀っていたという。
矢崎村
やざきむら
[現在地名]小松市矢崎町
木場潟西岸に面し、北は今江村、西は串村。正保郷帳では高二〇四石余、田方六町余・畑方六町余、新田高三五石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高二五九石、免四ツ五分、小物成は野役六匁・葭役二二七匁、地子銀二〇〇匁二分(うち四二匁余出来)、板舟櫂役五匁(出来)、油役一四匁(三箇国高物成帳)。寛政四年(一七九二)の家数四五(うち本百姓三一・頭振一四)、人数男一一三・女一〇三、馬三。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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