飯田城跡(読み)いいだじようあと

日本歴史地名大系 「飯田城跡」の解説

飯田城跡
いいだじようあと

[現在地名]飯田市追手町

飯田城下の東、飯田台地(河岸段丘)の南の突端に位置する。南のまつ川、北のたに川の深い谷によって挟まれた段丘の先端を利用し、堀で幾つかの郭を作った平山城。三本杉さんぼんすぎ城・長姫おさひめ城ともいわれる。

最初の築城は、室町時代の飯田郷地頭坂西氏によるものと考えられ、城の西方、谷を隔てた愛宕あたご地籍に飯坂いいざか城を築いたが、地域が狭小のため、現在地に移転したといわれる。

坂西氏は、本丸・二の丸・三の丸・追手門を位置づけ、飯田城を整えたが、武田氏の伊那侵入により陥落した。その後飯田城は、武田氏の郡代秋山信友、次いで毛利秀頼、下条頼安、菅沼定利城主が代わった。豊臣家の勢力拡充によって再び毛利秀頼、次いで京極高知が城主となる頃には、城も城下町も手が加えられ、いっそう整備された。

飯田城跡
はんだじようあと

[現在地名]安心院町矢崎 城

矢崎やざきの西部にあり、西は津房つぶさ川の断崖、南は佐田さだ川に臨み、北と東は山を控える。標高は約一二〇メートル、比高約四〇メートルで、本丸は約三反、二の丸・三の丸は各二反余の規模である。曲輪や土橋空堀などが遺存する。飯田氏代々の居城という。嘉慶二年(一三八八)六月日の宇都宮親景代申状(佐田文書)によると、佐田(宇都宮)親景は長州下山陣以来、大内義弘方の「飯田城衆」として忠節を尽していた。

飯田城跡
いいだじようあと

[現在地名]森町飯田

飯田の集落のある標高七九メートルの丘陵地上にあり、城跡には崇信そうしん寺がある。地元では本城とよんでいる。城主は鎌倉時代は勝間田氏で、その後は飯田の有力な在地領主山内氏の一族の城であったとされ、のちに山内一豊が住んだといわれる(遠江国風土記伝)。築城の時期や築城者については明確ではなく、古城と南に隣接する新城に分けられるともされるが土地の改変が著しく確認できない。

飯田城跡
いいだじようあと

[現在地名]珠洲市飯田町

若山わかやま川右岸の丘陵先端部にあり、南側に富山湾を望む。大小二ヵ所に郭跡(平坦面)や井戸跡・塚状遺構を残すというが、測量や発掘調査は行われておらず詳細は不明。城主は上杉謙信部将長与一景連とする説や在地土豪飯田与三右衛門とする伝承があり、正院川尻しよういんかわしり城との混同もみられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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