矢野庄(読み)やののしよう

日本歴史地名大系 「矢野庄」の解説

矢野庄
やののしよう

一二世紀前半に久富ひさとみ保が立券されて成立。庄名は古代の赤穂郡八野やの(和名抄)の郷名を継承したとみられる。庄域は現相生市域にほぼ合致する。ただし昭和二六年(一九五一)に編入されたもと揖保いぼ神部かんべ那波野なばの地区は庄域に含まれない。矢野川沿いの平野部と相生湾沿岸地域からなる。

〔成立〕

保延二年(一一三六)二月一一日の鳥羽院庁牒案(白河本東寺百合古文書)によれば、久富保白河上皇の近臣藤原顕季の家領であったが、顕季の長子長実・女房二条殿を経て、鳥羽上皇皇后美福門院得子(長実の娘)に譲られた。美福門院の申請によって立券の手続がとられることになり、鳥羽上皇は久富保の田畠・在家の検注を命じた。翌三年一〇月二三日立券が完了し矢野庄が成立。当時の下司は惟宗氏、公文は播磨氏で、一六三町二反余の田畠とその周囲に広がる雨内あまうち野・那波野・佐方さがた野およびあぞ野から構成されていた(「矢野庄立券文案」同文書)

〔伝領〕

当庄は美福門院から娘の八条院子内親王に譲られたが、仁安二年(一一六七)一二月、美福門院の御願寺歓喜光かんきこう(跡地は現京都市左京区)の寺用として四三町余の田が別名として切出され(「左馬允菅原某請文案」白河本東寺百合古文書)、残りの部分は例名とよばれた。その後例名も歓喜光院領となるので、いずれも八条院が本家、歓喜光院が領家となる。本家職は八条院から春華門院・順徳天皇へと伝えられ、承久の乱でいったん没収されたあと後高倉院に返付される。その後、娘の安嘉門院から室町院を経て亀山上皇へ伝えられた。亀山上皇は正安二年(一三〇〇)七月二五日、別名を京都南禅寺に寄進した(「亀山法皇院宣案」南禅寺文書)。例名は後宇多上皇に伝領後、正和二年(一三一三)一二月七日、重藤名と浦分の那波浦・佐方浦を除く地が東寺に寄進され(「後宇多法皇宸筆庄園・敷地等施入状」東寺文書)、文保元年(一三一七)三月一八日に重藤名以下残りすべてが改めて東寺に寄進された(「後宇多法皇院宣」東寺百合文書、以下断りのない限り同文書)

預所職は美福門院の乳母の伯耆局が任ぜられ、安元元年(一一七五)一二月一六日、孫の藤原隆信に譲られた(伯耆局譲状案)。隆信の子隆範はこの預所職を二分し、建長三年(一二五一)八月に浦分の那波浦・佐方浦を孫の宇曾御前に与え(藤原隆範袖判譲状)、同五年四月一二日、それ以外の部分(仮に「例名」とよぶ)を嫡子為綱に与えた(「藤原隆範譲状」松雲寺文書)


矢野庄
やののしよう

上下町矢野を中心に、上下川流域の甲奴町本郷ほんごう梶田かじた西野にしのなどを含む地。矢野郷ともよばれる。矢野の名は「和名抄」に甲奴郡の郷名としてすでに出るが、中世には有福ありふくに城を構えて付近を支配した竹内氏や、その後に入った尾越氏の支配下に含まれたらしく、応永元年(一三九四)一二月日付の、差出人不明の矢野左近大夫に宛てた判物(山内首藤家文書)に「有福郷内矢野郷」とある。矢野庄としては文明二年(一四七〇)六月一五日付の山内直通宛守護代宮田教言書状(同文書)に「矢野庄内梶田・本郷・西村事、今度色々預御馳走候之間、進置候、可有御知行候」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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