矢野村(読み)やのむら

日本歴史地名大系 「矢野村」の解説

矢野村
やのむら

[現在地名]安芸区矢野町

海田市かいたいち(現安芸郡海田町)を隔てて船越ふなこし村の南に位置し、南端の絵下えげ(五九三メートル)から発した矢野川・宮下みやげ川が中央をほぼ平行して北流。矢野川沿いに村を縦貫する黒瀬くろせ街道は、海田市から矢野峠を越え、熊野くまの盆地を経て賀茂郡津江つえ(現黒瀬町)郷原ごうはら(現呉市)に至り、また矢野峠下から焼山やけやま(現呉市)を経て呉に至るルートもあった。

和名抄」の安芸郡養濃やの郷に比定され、平安末期に成立した安摩あま庄に属し、仁治三年(一二四二)当時の安摩庄矢野浦惣公文は中原惟道であった(同年三月一二日付「安芸国安摩荘内衣田島荘官百姓等解」巻子本厳島文書)。同じ頃当地に梶取清昌なる者がいたことが知られる(延応元年一〇月二八日付「安摩庄厳島社日御供米送文」厳島野坂文書)。文安二年(一四四五)尾張の野間のま(現愛知県知多郡美浜町・南知多町)から野間氏が当地に入部するが、地元ではそれまで矢野氏という武士がいたと伝え、のち没落して江田えた(現安芸郡江田島町)に逃れたという。ちなみに江田島には矢之浦やのうらの地名が残る。野間氏は広島湾東岸域を治下に収め、矢野は野間氏領の中心地として商工業者・運輸業者の集住する初期城下町的様相をみせるようになる。

矢野村
やのむら

[現在地名]香良洲

南側の雲出くもず川と北側の雲出川古川に挟まれた三角洲に位置する。遺跡は、弥生時代以降の西山にしやま遺跡、古墳時代以降の北八反田きたはつたんだ観音堂かんのんどう高砂たかさごの各遺跡があり、北浦きたうら遺跡からは鎌倉期の和鏡が出土している。南北朝時代の「神鳳鈔」には、箱木はこぎ御園に傍書して「内宮矢野」とみえ、享徳元年(一四五二)庁宣注文(神宮文庫蔵)にも、当地名がみえる。また「内宮引付」には、文明五年(一四七三)六月の庁宣に、新警護所として矢野浦がみえ、当地周辺の神領からの御贄米などを神宮へ輸送し、この年に警護役を止めている。享徳四年五月一三日の旦那売券(米良文書)に「伊勢国矢野七郷旦那、城南坊ニ一円に御もち候へ共、矢野の地頭ハ長野一族いとう・(工カ)藤にて候程ニ」とあり、矢野七郷の旦那を、浜宮泰地の弥三郎が城南坊へ売っている。なお、「太平記」には、観応二年(一三五一)に矢野遠江守、延文五年(一三六〇)に矢野下野守の名がみえ、当地在住の武士とされる。また天正一〇年(一五八二)の北畠氏家臣帳である伊勢国司北畠家秘録(「美杉村史」所収)にも矢野下野守の名がみえ、矢野氏の居城は字地家垣内じけがいとに推定される。

矢野村
やのむら

[現在地名]徳島市国府町矢野こくふちようやの

延命えんめい村の北にあり、北は観音寺かんのんじ村、東はなか村、西は名西みようざい郡矢野村。伊予街道の脇道である上山かみやま道が北西名西郡尼寺にじ(現石井町)から当村に入り、西方名西郡矢野村・入田にゆうた村を経て同郡上山村かみ(現神山町)に通じていた。寛文四年(一六六四)以前は以西いさい郡に属した。名西郡矢野村と区別するため東矢野村と称されることもあった。天文二一年(一五五二)一一月七日の阿波国念行者修験道法度写(良蔵院文書)に「矢野千秋房」がみえる。天正一三年(一五八五)一二月一一日、「矢野百姓中」に対し蜂須賀阿波守(家政)から検地条々(興禅寺文書)が与えられた。この五ヵ条の条条によれば、検見の結果を墨付で確定した以後は記載の内容に相違があってはならないこと、人質は年貢上納が済み次第返還すること、百姓上田については代官側が刈取ること、以後人足などの賦課は墨付をもって行うのでそれ以外の場合はまかり出ないことなどが定められている。

慶長二年(一五九七)の分限帳では五〇石余が中条三十郎、一〇〇石が片山左吉、一〇〇石が梶浦三郎右衛門、七〇石が閑巴入道の各知行分。

矢野村
やのむら

[現在地名]徳島市国府町西矢野こくふちようにしやの国府町矢野こくふちようやの

鮎喰あくい川下流左岸、気延きのべ(二一二・三メートル)東麓に位置し、東は名東みようどう郡矢野村・延命えんめい村、南は同郡一宮いちのみや村、西は入田にゆうた村、北は内谷うちだに(現石井町)。式内社に比定される天石門別八倉比売あめのいわとわけやくらひめ神社が鎮座する気延山一帯は矢野神やののかみ山とよばれ、古くから山全体が信仰の対象とされてきた。付近には宮谷みやたに古墳・矢野古墳など古墳も多く、阿波国の中心地として古くから開かれていた。近世史料には名東郡の矢野村に対し西矢野村ともみえる。慶長二年(一五九七)の分限帳に村名がみえ、青山勝蔵が五〇石、木全七兵衛が四二石余を知行。同九年の検地帳(徳島城博物館蔵)によれば、高一八四石余。正保国絵図でも同高で、寛文四年(一六六四)郷村高辻帳では田方一五八石余・畠方二五石余、芝山の注記がある。

矢野村
やのむら

[現在地名]上下町矢野

甲奴郡の西南端に位置し、南は世羅郡の諸村、東は矢多田やただ村、北は国留くにどめ村に接する。「和名抄」の矢野郷の地にあたると思われ、中世には矢野郷・矢野庄の名でもよばれた。広島藩領で、家老三原浅野家知行所。「芸藩通志」は村の様子を、広さ三〇町・長さ二五町で「四面山繞り、南最高く郷中に阜岡ありて平地少し、水乏くして旱傷を患ふ、民農余に戸障子の類を造て売る」と記す。同書によれば耕地は九九町四段七畝一歩、村高は江戸時代を通じて六二三石余で変化はない。「備後国郡志」は物産に楮・茶・綿・漆を記し、村内の小名に宇根うね谷・茶屋ちやや谷・あし原谷・すたべ谷・神入垣内しんにゆうごうちほら谷・かたや谷・かけ谷があり、寺院として宝幢山延命院福泉ふくせん(現真言宗御室派)・竜洞山安福あんぷく(現曹洞宗)を記す。

矢野村
やのむら

[現在地名]賀陽町豊野とよの

大平おおひら山南麓、いわ村の東、宇甘うかい川の支流の矢野川および竹谷たけだに川の流域にある。集落は天田てんだ赤仁尾あかにお・矢野・中宮なかみやかせのぶ谷・兼信)石堂いしどう(もと上椿か)椿つばき(もと下椿か)などに分れている。寛永備中国絵図に村名がみえ、高七一八石余。正保郷帳でも同高、枝村にかせぎだに村・正久まさひさ村・上椿村・下椿村があげられる。正徳四年(一七一四)の備中一国重宝記では一千二四五石余。領主の変遷は舞地まいじ村に同じ。庄屋は小出氏が務め、文政(一八一八―三〇)から弘化期(一八四四―四八)にかけて庄屋であった三津右衛門は備中倉敷代官大草太郎右馬の許可を得て農村復興のため勤倹貯蓄を村民に奨励した(賀陽町史)

矢野村
やのむら

[現在地名]河津町川津筏場かわづいかたば

北・南・東を筏場村に囲まれ、河津川中流左岸に位置する。寛永七年(一六三〇)に筏場村より分村(掛川誌稿)。天文一三年(一五四四)一〇月一八日の三口みくち神社棟札(天神社蔵)に「河津庄之内於矢野村」とある。永禄元年(一五五八)六月二七日の北条家朱印状写(正木文書)には当地の中瀬なかぜがみえる。江戸時代の領主の変遷は笹原ささはら村と同じ。元禄郷帳には筏場村枝郷と肩書され、高五五石余。「掛川誌稿」によると家数一〇・人数四七。中瀬には薪買場所があり、商人はここに納屋を建てて河津上郷各村の薪を集荷し、舟で川下げしていた。

矢野村
やのむら

[現在地名]出雲市矢野町

高瀬たかせ川に沿う平坦地にあり、東は大塚おおつか村、南は小山おやま村。村名は八野やの神社の祭神八野若日女命による。古代の八野郷の遺称地。建武二年(一三三五)一二月三日の尼覚日譲状(北島家文書)に「いつものくにきつきのやしろのうちのさかへ、せきや・やのゝむら・さきのうら・おほみなとの事」とみえ、覚日は国造孝時より譲られた当村などを子息出雲孝景に譲っている。正保国絵図に村名がみえる。慶安二年(一六四九)の矢野村御検地帳がある。元禄十年出雲国郷帳では高九九六石余、寛文四年(一六六四)の本田高九九四石余、新田高なし。「雲陽大数録」では高七五〇石。宝暦四年(一七五四)の神門郡北方万指出帳(比布智神社文書)では東西一一町四〇間・南北九町、家数八六・人数三六五、馬一〇・牛七、紺屋二・大工二・桶屋一・綿打一と記す。

矢野村
やのむら

[現在地名]玉城町矢野

外城田ときだ川支流三郷さんごう川の上流、度会山地の北縁にある。康永三年(一三四四)の法楽寺文書紛失記(京都市田中忠三郎氏蔵文書)に「度会郡城田郷矢野村」とみえる。皇大神宮摂社田乃家たのえ神社があり、古く田辺社と記され、「伊勢二所皇太神宮神名秘書」に「在城田郷矢野村」とみえる。「神都名勝誌」は「両宮禰宜転補次第記に承暦二年在職の一禰宜荒木田神主氏範を矢乃長官と称する由見えたり。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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