藤原隆信(読み)フジワラノタカノブ

デジタル大辞泉 「藤原隆信」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐たかのぶ〔ふぢはら‐〕【藤原隆信】

[1142~1205]平安末期・鎌倉初期の宮廷画家歌人法名戒心定家異父兄似絵にせえ先駆者で、神護寺所蔵の源頼朝像・平重盛像の作者と伝えられる。家集隆信朝臣集」。

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精選版 日本国語大辞典 「藤原隆信」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐たかのぶ【藤原隆信】

  1. 平安末・鎌倉初期の歌人、画家。法名、戒心。常磐(大原)三寂の一人寂超の子で、藤原定家と母を同じくする。正四位下左京大夫に至る。肖像画にすぐれ、神護寺の源頼朝や平重盛の像などはその作と伝えられる。家集に「隆信朝臣集」がある。康治元~元久二年(一一四二‐一二〇五

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改訂新版 世界大百科事典 「藤原隆信」の意味・わかりやすい解説

藤原隆信 (ふじわらのたかのぶ)
生没年:1142-1205(康治1-元久2)

平安末期の画家,歌人。父は大原三寂の一人,藤原為経(為隆,法名寂超)。母は若狭守親忠の娘。藤原定家の異父兄で似絵(にせえ)画家藤原信実の父。美福門院,八条院に近侍した。越前守,若狭守,右馬権頭,右京権大夫に任ぜられ,正四位下に叙せられた。1173年に成った最勝光院御堂御所障子絵の日吉御幸などの行事絵に,実際に供奉した人々の面貌描写を担当した隆信の画事は,次代に流行した似絵の先駆として銘記される。また《神護寺略記》には同寺の後白河院,源頼朝などの肖像画をかいたと記され,現存する神護寺蔵《源頼朝像》《平重盛像》《藤原光能像》は彼の作とする説があるが,その真否は不明である。そのほか《大原図》6巻,《法然上人像》などの画事が伝えられる。専修(せんじゆ)念仏に帰依し,1202年法然について出家し,法名を戒心と称した。歌人としても《新古今集》撰集のための和歌所寄人(よりうど)となり,散文作家としても《弥世継(いやよつぎ)》《うきなみ物語》などを残している。家集《隆信朝臣集》があり,勅撰集に68首入集。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤原隆信」の意味・わかりやすい解説

藤原隆信
ふじわらのたかのぶ
(1142―1205)

平安末期から鎌倉初期の宮廷画家、歌人。藤原為隆(ためたか)の子、定家(ていか)の異父兄。上野介(こうずけのすけ)、越前守(えちぜんのかみ)、若狭守(わかさのかみ)を歴任し、右馬権頭(うまごんのかみ)、右京権大夫(うきょうごんのだいふ)、正四位下となる。1201年(建仁1)帰依(きえ)していた法然(ほうねん)に従って出家、戒心と号した。廷臣にして画技に長じ、当時の新風であった写実的な肖像画「似絵(にせえ)」の先駆者として知られる。1173年(承安3)に建立された最勝光院の障子絵に描かれた平野行啓(ひらのぎょうけい)・日吉御幸(ひえごこう)・高野山行幸(こうやさんぎょうこう)図は、常盤光長(ときわみつなが)と隆信の合作になるが、隆信は人物の面貌(めんぼう)のみを描いたと記されている。京都・神護寺に伝来する源頼朝(よりとも)・平重盛(しげもり)・藤原光能(みつよし)の三像(いずれも国宝)は、隆信と関連の深い作品と考えられる。歌人としても活躍し、『千載(せんざい)和歌集』などにはその作品が入集(にっしゅう)し、家集『隆信朝臣(あそん)集』も残されている。このほか記録によれば、つくり物語や歴史物語も著している。このような多才さは子の信実(のぶざね)に受け継がれ、とくに似絵に秀でた。その家系からは専阿弥(せんあみ)・為信(ためのぶ)・豪信(ごうしん)らの肖像画家が輩出し、鎌倉時代絵画の重要な一ジャンルである似絵の伝統を担った。

[加藤悦子]

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百科事典マイペディア 「藤原隆信」の意味・わかりやすい解説

藤原隆信【ふじわらのたかのぶ】

平安末期〜鎌倉初期の宮廷画家で,似絵(にせえ)の名手。藤原信実の父。1173年常磐光長とともに最勝光院内の御所の障子に日吉行幸(ひえごこう)などの記録画を描き,人びとの面貌(めんぼう)を受け持ったといわれる。代表作《伝源頼朝像》(足利直義像とも。京都神護寺蔵)等。絵巻を描いた伝承もある。歌人としても知られ,藤原定家は異父弟にあたる。
→関連項目歌林苑

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朝日日本歴史人物事典 「藤原隆信」の解説

藤原隆信

没年:元久2.2.27(1205.3.19)
生年:康治1(1142)
平安・鎌倉初期の歌人。似絵絵師。父は皇后宮少進藤原為経,母は藤原親忠の娘。美福門院,八条院,後白河院の侍臣を勤め,右馬権頭,右京権大夫,正四位下の位官を得た。上野介,越前守,若狭守を歴任。建仁2(1202)年,61歳で出家し,法然上人に帰依した。和歌に長じ,『千載和歌集』に入集,同年和歌所寄人となる。歌集に『隆信朝臣集』があり,中級貴族ゆえの不遇を歌に託したものも多い。また似絵という写実的な肖像画の新領域を開いた。鎌倉期肖像画の代表作である京都神護寺「源頼朝像」「伝平重盛像」「伝藤原光能像」(すべて現存)は『神護寺略記』が隆信の筆と伝えているが,美術史の方面からは確定していない。九条兼実の日記『玉葉』には,承安3(1173)年に常磐光長が建春門院御願の最勝光院御堂障子に描いた「平野行啓・日吉御幸図」と後白河院の「高野御幸図」があり,公卿の面貌のみは隆信が描いたとある。

(相澤正彦)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「藤原隆信」の意味・わかりやすい解説

藤原隆信
ふじわらのたかのぶ

[生]康治1(1142)
[没]元久2(1205)
平安時代末期から鎌倉時代初期の廷臣。絵画や和歌に秀でた。官は右京権大夫にいたり,晩年は法然に入門し戒心と号した。藤原信実の父,定家の異父兄。特に人物の顔の写実的描写に優れ,承安3 (1173) 年建立の最勝光院御堂の障子絵において,著名な宮廷画家常磐光長が描いた平野行啓,高野御幸,日吉 (ひえ) 御幸などの行列図中,供奉の廷臣たちの顔のみを隆信が描いたと記録されており,伝統的,儀礼的な肖像画に新しい個性表現を与えたものと考えられる。神護寺に伝わる『源頼朝像』ほか3廷臣像は,技法的にも隆信作と信じてよい。歌集『藤原隆信朝臣歌集』。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「藤原隆信」の解説

藤原隆信
ふじわらのたかのぶ

1142~1205.2.27

平安後期~鎌倉前期の公家。父は為経。定家は異父弟。絵画・和歌にすぐれ,後白河上皇に重用され近臣として仕えた。官歴は国司を歴任,正四位下右京権大夫に至る。画家としては人物の面貌を描くことにすぐれ,技法は子の信実にひきつがれ,鎌倉時代に展開する似絵(にせえ)はこの家系の人々が多く関与した。1173年(承安3)建春門院発願の最勝光院御所の障子絵を,絵師常磐(ときわ)光長とともに担当し,とくに命じられて高野御幸以下3度の行事に供奉(ぐぶ)した廷臣の面貌を描いた。京都神護寺の「源頼朝像」「平重盛像」「藤原光能像」(いずれも国宝)を隆信の作と伝える。勅撰集への入首も多く,家集「隆信朝臣集」が残る。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原隆信」の解説

藤原隆信 ふじわらの-たかのぶ

1142-1205 平安後期-鎌倉時代の画家,歌人。
康治(こうじ)元年生まれ。父は藤原為経(ためつね)。母は美福門院加賀。藤原信実(のぶざね)の父。正四位下,右京権大夫にすすむ。似絵(にせえ)(肖像画)にすぐれ,京都神護寺所蔵の源頼朝・平重盛(しげもり)・藤原光能(みつよし)像の作者とつたえられる。藤原定家(さだいえ)の異父兄で「千載(せんざい)和歌集」などに歌がある。元久2年2月27日死去。64歳。家集に「隆信朝臣(あそん)集」。

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旺文社日本史事典 三訂版 「藤原隆信」の解説

藤原隆信
ふじわらのたかのぶ

1142〜1205
平安末期〜鎌倉初期の画家・歌人
定家の異父兄。後白河法皇の近臣。似絵 (にせえ) にすぐれ,代表作に京都の高雄神護寺の『伝源頼朝像』『伝平重盛像』などがある。その画風は子信実に伝えられた。また歌人としても有名であった。

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世界大百科事典(旧版)内の藤原隆信の言及

【鎌倉時代美術】より

…人物の面貌を素描風にとらえる似絵の特色は,この時代の写実主義の傾向をもっともよく示すもので,それまでの肖像画とは一線を画している。その始祖といわれる藤原隆信の作に擬せられる神護寺の伝源頼朝・平重盛・藤原光能像の3幅は,伝統的な肖像画の範疇にあって,似絵の本質的な速写性は欠如しているにもかかわらず,その面貌に見る個性表現の新しさは似絵との関連を思わせる。これが鎌倉初頭の肖像の世界に出現した意義は大きい。…

【似絵】より

… このような傾向に変化が兆したのは平安時代末期で,建春門院の発願により1173年(承安3)に成った最勝光院御堂の御所障子絵はその変化を示唆する事例で,九条兼実の日記《玉葉》の記すところによれば,そこには1172年の日吉御幸などの絵が描かれたが,画面には実際に供奉した貴族たちの似顔が表されていた。障子絵を担当したのは絵師常盤光長であったが,面貌だけはそれを得意とした藤原隆信が手がけたのである。この作例は同時に次代への道を開く似絵の先駆的作品として位置づけることができる。…

【矢野荘】より

…別名は1300年(正安2)亀山上皇より南禅寺に寄進され,その後長く南禅寺領としてその支配を受けた。いっぽう例名は八条院(歓喜光院)を本家,伯耆局を領家とする荘園となったが,領家職は伯耆局の孫で似絵の名手といわれた藤原隆信の子孫に伝えられた。1297年(永仁5)には領家藤原氏と地頭海老名氏との間に例名の下地中分(したじちゆうぶん)が行われ,東方地頭方と西方領家方に両分された。…

※「藤原隆信」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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