石場町(読み)いしばまち

日本歴史地名大系 「石場町」の解説

石場町
いしばまち

[現在地名]福井市つくも一丁目・足羽あすわ一丁目

足羽山の北東麓をほぼ南北に走る北陸街道沿いの町で、北から下・上の二町に分れ、北は久保くぼ町、南は神宮寺下じんぐうじしも町。石場畠方を含めて石場町とよばれたうちの無地子町で(城下外の石場町を参照のこと)、正徳三年(一七一三)頃の御城下惣町間数帳には「往還石場下町 三拾九間、上町ヨリ窪町迄、但道幅四間」「同石場上町 四拾九間、神宮寺下町ヨリ石場下町迄、但道幅四間」と記し、天保三年(一八三二)の石場組家帳(上田家文書)によると、家数は石場上町二五、同下町二五、うち無役馬問屋太郎左衛門・紙屋五郎右衛門(橘御朱印之内)・指物屋権助と記す。


石場町
いしばまち

[現在地名]柳川市沖端町おきのはたまち

みなみ町通から東へ続く通りを中心とした町。東部でいったん南に折れたのちさらに東に続く。北側は沖端川引込みと城堀へ続く堀に面した片側町。南裏は矢留やどみ村。年不詳の柳川城下絵図・沖端南部(九州大学附属図書館六本松分館蔵檜垣文庫)には、石場町通東側から南へ延びる道に火番所と木戸が描かれている。また同絵図に張られた付箋から、土地は矢留村分、住民は町方支配であったことがわかる。


石場町
いしばまち

[現在地名]福井市つくも・足羽あすわ一帯

福井城下の西南部、足羽川南岸から足羽山の東北麓にかけての地域で慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図に「石場町地子」として高五七一・四九九石、高七六一・一石畠方とあり、正保郷帳では前者は石場町高、後者を石場畠方として石高は変わらず田方はない。文政六年(一八二三)の十四領村々高附帳(福井市立郷土歴史博物館蔵)にみえる御城下廻所々引高の石場町高五七一石余が無地子町と侍屋敷・組屋敷地の引高で、地子を納める石場畑方に発達した町が地方町である(城下内の石場町を参照のこと)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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