石母田村(読み)いしもだむら

日本歴史地名大系 「石母田村」の解説

石母田村
いしもだむら

[現在地名]国見町石母田

北部から中部にかけては山地で、熊笹入くまざさがいり川・西沢にしざわ川・蛭沢ひるさわ川が南の平地に流れ、たき川に注ぐ。これらがつくった南向きの扇状地人家・畑が点在する。南は山崎やまざき村・森山もりやま村、東は西大窪にしおおくぼ村、西は内谷うちや村。奥州道中は村の南、森山上野原わのはらの北に接する辺りを通る。東部中央には厚樫あつかし山があり、その南の硯石すずりいし山との間に東西方向に国見沢が横たわり、そこには平安時代と推定される条里の遺構が近年までみられた。国見沢の名は、天明八年(一七八八)の巡見使案内控(梁川町史)みえる。

天文七年(一五三八)の段銭古帳に、伊達西根だてにしねのうちとして「石も田」とみえ、段銭は一四貫八一〇文。永正一三年(一五一六)四月二三日の伊達稙宗安堵状案(伊達家文書)には、石母田左京亮の名がみえる。伊達氏天文の乱時、伊達稙宗は石母田城に入った。天文一二年一〇月二〇日、伊達晴宗は当地を攻撃、外城をとり破り放火している(同月二一日「伊達晴宗書状」留守文書)。翌一三年三月、懸田家臣の中に反逆するものが出たため、稙宗は当地を撤退したが、その際晴宗方と合戦となっている(四月七日「最上義守書状」伊達家文書)。同城跡は広さ五ヘクタールほどあり、濠跡・土塁などが残る。石母田家譜(伊達世臣家譜)によると石母田氏は甲斐源氏の出自といい、伊達家の家臣となって石母田郷に移住し、石母田を姓とした。天文二二年石母田郷には石母田氏のほかに中津川氏などの所領もあった(蟻坂文書・晴宗公采地下賜録)。元亀元年(一五七〇)伊達輝宗(晴宗の子)と陸奥角田城主田手宗光とは、晴宗が重用した中野宗時とその子牧野久仲の謀反をめぐって不和となったが、伊達実元のとりなしで結着がついた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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