石見銀山跡(読み)いわみぎんざんあと

日本歴史地名大系 「石見銀山跡」の解説

石見銀山跡
いわみぎんざんあと

[現在地名]大田市大森町

一六世紀前半から本格的に採掘が始められ、江戸時代にも引続き稼行された鉱山閉山は大正一二年(一九二三)。戦国期には史料上は「石州銀山」「銀山」と記されるのが一般的であるが、天文二一年(一五五二)一二月二日の尼子晴久袖判奉行人連署書状写(尼子家古記録)には「佐間銀山」とみえる。また銀の積出しや銀山への物資搬入で活況を呈した温泉津ゆのつ(現温泉津町)と合せて「温泉銀山」ともいわれた(元亀二年六月二六日「吉川元春等連署状」毛利家文書)。銀山は「中書家久公御上京日記」天正三年(一五七五)六月二四日条などから「かなやま」とよばれたと推測される。石見銀山と一般的に呼称されるのは近世以降のことである。

〔中世〕

銀山旧記」など近世に記された文献によれば、銀山は延慶年間(一三〇八―一一)大内弘幸が開発したと伝え、その後南北朝期には足利直冬によって銀が採掘されたという。戦国時代の再開発についてもこれらの文献に拠るところが多いが、周辺史料などからも再開発の時期は大永―天文年間(一五二一―五五)というのはほぼ確実なところであろう。大永六年に筑前博多はかた(現福岡市博多区)の商人神谷寿貞と出雲国さぎ(現大社町)の銅山師三島清右衛門が吉田与三右衛門・同藤左衛門・於紅孫右衛門の三人の掘子大工を連れて入山した。この頃は露頭した自然銀を採掘しており、鉱石は馬路まじ(現仁摩町)なだ古柳こりゆう鞆岩ともいわなどの湊に運ばれ朝鮮や博多の商人が船で買付けに来港したという。天文二年に神谷寿貞は博多から桂寿・宗丹という二人を伴い来山、銀精錬法の灰吹法を導入し銀の現地精錬に成功した。この灰吹法という新しい技術により銀生産量が飛躍的に増大したといわれる。大陸伝来の灰吹法がこの時期に伝えられたという記録は「李朝実録」などの朝鮮半島側の史料にもみえ、一五三〇年代前後に日本が銀の輸入国から輸出国へ転じ、また銀精錬技術を倭人に伝授したなどとも記されている。灰吹法は一〇年後には生野いくの(現兵庫県生野町)鶴子つるし(現新潟県佐和田町)いちさか(現山口市)院内いんない(現秋田県雄勝町)などの鉱山にも伝えられ、世界のなかで日本は銀の一大産出国となった。当時ポルトガルは中国で購入した生糸・絹織物・鉛などを載せ日本に来航、これらの品物を銀に換え東南アジアで香辛料を購入するという中継貿易を行っていたが、このとき日本から海外に持出された銀の大部分が石見銀山産と推測されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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