山吹城跡(読み)やまぶきじようあと

日本歴史地名大系 「山吹城跡」の解説

山吹城跡
やまぶきじようあと

[現在地名]大田市大森町

大森おおもり町の西部、邇摩にま仁摩にま町との境にある要害ようがい山に築かれた山城で、戦国時代石見銀山をめぐる争奪戦の拠点となった。延慶二年(一三〇九)に銀山を発見した周防の国主大内弘幸が、山吹山に城郭を築き銀山を守ったと伝える(「銀山旧記」など)。永禄元年(一五五八)九月三日の尼子晴久書状(閥閲録)に「山吹已下之敵城悉伐捕之」とみえる。「銀山旧記」「陰徳太平記」などによると、大内氏が銀山を支配下に置くのは大永年間(一五二一―二八)で、その後享禄四年(一五三一)川本かわもと(現川本町)の小笠原長隆が銀山を手に入れるが、天文二年(一五三三)には大内氏が奪回する。同六年出雲の尼子経久が銀山を攻め一時期銀山を掌握するが、同八年再び大内義隆が奪回、翌九年には尼子晴久が銀山を攻略、さらに翌一〇年には小笠原氏が銀山を攻め支配下に置いている。


山吹城跡
やまぶきじようあと

[現在地名]下諏訪町下の原字城

現下諏訪町の北部、諏訪大社下社春宮の北東約二・五キロの丘陵上にある山城。東は丸山(一一八〇メートル)に連なり、北方東俣ひがしまた川、西方川の渓谷に囲まれ、南方城とよばれるさくら城がある。本郭・二の郭・三の郭・曲輪・空堀等を存し、西側に湧水がある。小字名にやまぶきじょう・ごてんじょう・こじょう等が残っている。

下社大祝金刺氏の築城と伝えられるが、年代は不詳。応仁の乱の前後には上下の諏訪社の衝突が反復され、ついに永正一五年(一五一八)大祝金刺昌春が上社惣領家諏訪頼満に攻められ、当城で没落し終わった、下社大祝の「詰の城」と伝えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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