日本大百科全書(ニッポニカ) 「石達開」の意味・わかりやすい解説
石達開
せきたつかい
(1831―1863)
中国、太平天国の指導者の1人。広西省貴県の客家(はっか)の富農出身。1851年金田蜂起(きんでんほうき)に参加、翼王に封ぜられた。戦術に優れ、鎮圧にあたった曽国藩(そうこくはん)を悩ませた一方、安徽(あんき)省で治績をあげた。56年指導部の分裂後、部隊を率いて天京(てんけい)(南京(ナンキン))を去り、浙江(せっこう)、福建を経て広西に戻り、官制を改めて太平天国から旗幟(きし)を分かった。61年広西を出て四川(しせん)に入り、63年大渡河(だいとが)で清(しん)軍に包囲され、四川総督の駱秉章(らくへいしょう)に投降して処刑された。中国では文化大革命中に「革命陣営に紛れ込んだ地主分子」「裏切者」と非難されたが、文革後は「誤りも犯したが功績のほうが大きい」との評価がなされている。近年発見された毛祥麟(もうしょうりん)の『三略匯編(さんりゃくかいへん)』の原稿中に『石達開自述』が含まれており、従来の『駱文忠公奏稿(らくぶんちゅうこうそうこう)』に付された『自述』より原型に近いことが明らかにされた。
[西川喜久子]