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石達開 せきたつかい Shi Da-kai; Shih Ta-k`ai

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

石達開
せきたつかい
Shi Da-kai; Shih Ta-k`ai

[生]道光10(1830)頃
[没]同治2(1863).成都
中国,太平天国の指導者。広西省貴県のハッカ (客家) 出身。地主の生れではあるが,客家であるための差別待遇を受けることが多く,一家をあげて太平天国に参加,翼王に封じられた。咸豊6 (1856) 年の北王韋昌輝による東王楊秀清らの虐殺には北王に加担したが,やがて天京 (南京) から離れて独自の行動をとり,安徽,江西,浙江,福建に転戦。

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世界大百科事典 第2版の解説

せきたつかい【石達開 Shí Dá kāi】

1831‐63
中国,太平天国の最高指導者の一人。広西省貴県の客家(ハツカ)の小地主の出で,1851年(咸豊1)太平天国の最若年の王(翼王)となり,有能な戦術家,また現実的な政治指導者として重きをなした。とくに56年楊秀清と韋昌輝との間の内訌後,軍政両面の事実上の最高指導者たることを期待されたが,天王(洪秀全)に疎んじられ,身の危険を察知して10万の軍を率いて天京(南京)を離脱,各地で独自の反清闘争を続けたが四川の大渡河で全滅し,みずから清の軍営に赴いて処刑された。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

石達開
せきたつかい
(1831―1863)

中国、太平天国の指導者の1人。広西省貴県の客家(はっか)の富農出身。1851年金田蜂起(きんでんほうき)に参加、翼王に封ぜられた。戦術に優れ、鎮圧にあたった曽国藩(そうこくはん)を悩ませた一方、安徽(あんき)省で治績をあげた。56年指導部の分裂後、部隊を率いて天京(てんけい)(南京(ナンキン))を去り、浙江(せっこう)、福建を経て広西に戻り、官制を改めて太平天国から旗幟(きし)を分かった。61年広西を出て四川(しせん)に入り、63年大渡河(だいとが)で清(しん)軍に包囲され、四川総督の駱秉章(らくへいしょう)に投降して処刑された。中国では文化大革命中に「革命陣営に紛れ込んだ地主分子」「裏切者」と非難されたが、文革後は「誤りも犯したが功績のほうが大きい」との評価がなされている。近年発見された毛祥麟(もうしょうりん)の『三略匯編(さんりゃくかいへん)』の原稿中に『石達開自述』が含まれており、従来の『駱文忠公奏稿(らくぶんちゅうこうそうこう)』に付された『自述』より原型に近いことが明らかにされた。[西川喜久子]

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