洪秀全(読み)コウシュウゼン

デジタル大辞泉 「洪秀全」の意味・読み・例文・類語

こう‐しゅうぜん〔‐シウゼン〕【洪秀全】

[1814~1864]中国末、太平天国最高指導者。花県(広東カントン省)の人。自らエホバの子であるとして、上帝会組織。1851年、挙兵して自ら天王と称し、国名を太平天国とした。南京を攻略して都としたが、内紛を起こして清軍に敗れ、南京陥落直前に病死

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精選版 日本国語大辞典 「洪秀全」の意味・読み・例文・類語

こう‐しゅうぜん‥シウゼン【洪秀全】

  1. 中国、清末の太平天国の指導者キリスト教民間信仰とを混合した宗教結社、拝上帝会を結成。これを発展させて太平天国を樹立し、天王と号した。天京(南京)を国都とし、農民の支持を得て各地を攻略し、清朝の反撃にあい、南京陥落前に病死した。(一八一四‐六四

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「洪秀全」の意味・わかりやすい解説

洪秀全
こうしゅうぜん
(1814―1864)

中国、太平天国の創始者。広州から50キロメートルほど離れた花県の客家(ハッカ)の農民の子。23歳のとき、科挙に三たび失敗し、熱病を病んだ際、天使に迎えられて昇天し、金髪の老人から、天下の人々を惑わし堕落させている妖魔(ようま)を退治せよとの使命を与えられ、天上で彼らと戦うという幻夢をみた。彼はかつて、偶然広州の試験場前で入手した新教系のキリスト教入門書『勧世良言』を読んで、かの老人こそは唯一の真の神天父上帝であり、妖魔とは中国にはびこる儒・仏・道教などのさまざまな偽りの神仏、偶像で、彼は上帝からこれらを一掃する聖なる使命を与えられたのだと確信し、1843年拝上帝教を創始した。彼はこの神をエホバ(ヤーウェ)と等置したが、実際は中国古来の人格神すなわち上帝を唯一神としたもので、キリスト教とは異質のものであった。彼は、すべての男は上帝から生命を与えられた兄弟であり、女は姉妹であって、一大家族として差別・対立のない世界に生きるべきだとして、その理想を孔子が『礼記(らいき)』「礼運篇(れいうんへん)」に記した大同に仮託して描いた。初期にはすべての人がこの正しい信仰にたち、上帝が教えた禁欲的戒律を守れば、この理想は実現されるとして、かならずしも地上の革命を考えてはいなかった。

 1847年広西(カンシー)の桂平県で開始した偶像(神廟(しんびょう)、神像)破壊運動をきっかけに、支配秩序と激しく対立し、やがて清(しん)朝を最大の妖魔として打倒して、地上に天国を樹立するための革命に進んだ。1850年末に清軍との大規模な戦闘に入り、1851年に天王を称し、国号も太平天国として、1853年南京(ナンキン)を首都に新政権を樹立するまで、彼はその権威を十分に活用して、運動の実際面でも大きな役割を果たした。しかし、南京建都後は、政治、軍事の指導をもっぱら東王楊秀清(ようしゅうせい)(1820ころ―1856)にゆだね、壮麗な天王府の奥深く、多数の后妃に囲まれて暮らし、その宗教もしだいに神秘性を加えた。1856年の大分裂以後は、一族以外の部下を信頼せず、内部分解に拍車をかけた。南京陥落の20日前に病死したが、その死の真相は、曽国藩(そうこくはん)が湘軍(しょうぐん)の功を強調するため、李秀成(りしゅうせい)の供述書における秀全の病死という記述を、服毒自殺と改竄(かいざん)したため、長く隠されてきた。

[小島晋治 2018年6月19日]

『小島晋治著『洪秀全』(『人物中国の歴史9』所収・1981・集英社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「洪秀全」の意味・わかりやすい解説

洪秀全 (こうしゅうぜん)
Hóng Xiù quán
生没年:1814-64

中国,太平天国の創始者。広東省花県の客家(ハツカ)の中農の家に生まれた。幼名仁坤。1837年(道光17)3度目の府試(科挙の第1段階)に失敗した後,病んだ熱病の中で,天使に迎えられて天上に昇り,高貴な老人から,妖魔が跳梁する汚濁に満ちた下界の衆生を救えとの使命を与えられる幻夢を見た。のちに読んだ新教の布教用冊子《勧世良言》を自己流に解することで,彼はこの夢をキリストにつぐ上帝の次子である彼に与えられた上帝の啓示であると受けとり,〈拝上帝教〉を創始した。彼は中国古来の人格神である上帝を,ヤハウェと等置し,上帝以外に神はなく,中国に遍在するいっさいの偶像崇拝こそ中国人を堕落させた根源として,唯一神礼拝と禁欲倫理の厳守を説いた。彼は初めから地上の革命をめざしたのではなく,ただ万人の悔い改めと改宗によって,万人が上帝の子女,兄弟姉妹として助け合う,差別と対立なき大同世界の実現を夢見た。

 のち広西の桂平,貴県などでおもに客家の貧農からなる教徒を率いて展開した偶像破壊運動を通じて,伝統的秩序をになう地主,郷紳,さらに清朝との対立を深めた。50年10月から12月にかけて,広西各地で清軍との戦闘に入り,翌年春,彼は天王を称し,秋には同省永安を占領して〈太平天国〉を樹立した。挙兵以後このころまでは,彼は士気の高揚や厳正な軍規の樹立に現実面でも大きな役割を果たしたが,以後軍・政の実権はしだいに東王楊秀清にゆだねられた。とくに53年(咸豊3)南京(天京と改称)占領後は壮麗な天王府を造営して多数の后妃に取り囲まれ,実際の指導から遊離した。56年東王の権力を排除しようとして悲惨な楊韋内訌を引きおこして,以後は無能な兄2人を要職につけて諸王を牽制するなど,しだいに人心を失った。反面,彼は最後まで〈万国の真主〉としての立場から西欧諸国の干渉政策に抵抗した。天京陥落前夜重病にかかり,宗教的信念に従って薬をいっさい拒否して病死した。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「洪秀全」の意味・わかりやすい解説

洪秀全
こうしゅうぜん
Hong Xiu-quan; Hung Hsiu-ch`üan

[生]嘉慶19(1814).1.1.
[没]同治3(1864).6.1. 南京
中国,太平天国の最高指導者。広東省花県の人。ハッカ(客家)の家に生まれ,たびたび科挙に失敗。失意のうちに道光23(1843)年,キリスト教入門書『勧世良言』を読み,その内容がかつて見た幻夢と一致することから,自分こそ「上帝(ヤハウェ)」から救世の使命を受けたものと確信し,自分をヤハウェ(天父)の子と称して上帝会を創立し,広西省南東部で布教に従事した。世界は上帝を父とする一家で,人間はみな兄弟であるとする平等思想と,厳しい禁欲倫理と戒律とに支えられたその教えは,南京条約後の社会的矛盾激化のなかで,伝統体制から疎外されていた客家や貧窮農民に多く受け入れられていった。道光30(1851)年,広西省桂平県金田村に挙兵,「太平天国」樹立を宣言,みずから天王と称した。各地で清軍を破って揚子江流域に進出,咸豊3(1853)年南京を占領,ここを首都として「天京」とした。しかし,この頃から指導部の堕落が始まり,洪自身も政治を一族や有力部将に任せて,祈祷にふけるのみとなった。このためイギリス,フランスの援助を得た清軍の反攻に対して適切な処置をとることができず,南京籠城中に死んだ。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「洪秀全」の解説

洪秀全(こうしゅうぜん)
Hong Xiuquan

1814~64

清末,太平天国の指導者。広東省花県官禄㘵(かんろくふ)の客家(ハッカ)。中農の出身。科挙の予備試験に数回失敗したのち,キリスト教からヒントを得て拝上帝教(上帝教,上帝会)を創始し,人間の政治的・経済的平等と邪教の撲滅を唱えた。広西の客家の間に多くの信者を集め,1851年1月桂平県金田村で太平天国の国号を建て,湖南,湖北を通って53年3月南京を陥れた。ここを天京と定めて四方を攻略し,長江流域を制圧したが,56年東王楊秀清(ようしゅうせい)が北王韋昌輝(いしょうき)に殺されると,彼は北王を誅した。さらに翼王石達開(せきたつかい)を遠ざけて有能な指導者を失い,みずからは安逸にふけってしだいに敗北を招き,ついに天京陥落の1月前に病死したといわれる。

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旺文社世界史事典 三訂版 「洪秀全」の解説

洪 秀全
こうしゅうぜん

1813〜64
清末期,太平天国の指導者
広東 (カントン) 省の客家 (はつか) 出身。長じて科挙 (かきよ) に応じ3度も落第。失意の病床で天啓を得,キリスト教的結社上帝会を創始し,指導者となった。人間の平等を説く宗旨は,貧農・客家の支持を得て地主や官憲との対立を生じた。1851年上帝会を中心に,広西 (カンシー) 省金田村で挙兵,同年太平天国と称し,天王となった。1853年南京を占領,ここを首都天京と号し,「滅満興漢」を唱えた。天朝田畝 (てんちようでんぽ) 制度を制定し,アヘン・辮髪 (べんぱつ) ・纒足 (てんそく) も禁止した。しかし華北遠征に失敗し,宗教政治の行きづまりで専制的となり,幹部間の内紛や郷勇・常勝軍によって前途をはばまれ,天京の陥落直前に自殺(病死ともいわれる)した。

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百科事典マイペディア 「洪秀全」の意味・わかりやすい解説

洪秀全【こうしゅうぜん】

中国,清朝末期の農民運動指導者。太平天国の最高指導者。天王と称す。広州の人で客家(ハッカ)の中農出身。科挙の予備試験に数回失敗した後,キリスト教に触れ,馮雲山らと拝上帝会を組織,人間の政治的・経済的平等と邪教の撲滅を唱え,広西の客家の間に信者を集めた。1851年の武装蜂起(ほうき)以来,太平天国の運動を指導,1864年天京の陥落を前に病死。
→関連項目李秀成

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世界大百科事典(旧版)内の洪秀全の言及

【大同思想】より

…孔子は,遠い古代には〈大道〉(すぐれた道徳)が行われていて天下は公有のものであったとされて,公平で平和な共産的理想社会を描き,それに反し,今日は〈大道〉がすでに隠れて,天下は一家の私有となり,私利私欲の横行する混乱した社会になったと嘆いている。この大同思想に似た,土地・家屋の均分公有という思想は,歴代の宗教的農民反乱のなかでしばしば提起され,19世紀中ごろの太平天国運動で,洪秀全が《原道醒世訓》の中で,理想とする新世界を〈礼運篇〉にもとづきながら説明しているのは,その典型といえる。 しかし中国伝統の大同思想を正面からとりあげて,壮大で詳細な社会理論に組み立てたのは,清代末期(19世紀末)の康有為が最初である。…

【太平天国】より

…1851年(咸豊1)広西に樹立され,のち南京を首都天京として,清朝,また末期にはイギリス,フランス干渉軍と戦って64年(同治3)に滅んだ中国の民衆的政権。
[太平天国の理想と挙兵経過]
 母体は1843年(道光23)広東省花県の客家(ハツカ)の農民出の読書人洪秀全が創始した拝上帝教という宗教団体である。彼は科挙失敗後の病中に見た幻覚を,偶然手にしたプロテスタントの布教文書によって解釈し,みずからを堕落した中国を救う使命を真の神,天父上帝から与えられた者と確信した。…

【客家】より

…日常,女子が屋外の重労働に従事するのが特徴で,男子は海外に渡り鉱山で働くものも多いが,どこででも客家としての固い団結を作っている。他の漢民族から差別扱いを受けるので,社会に反感を抱き太平天国の洪秀全のように革命行動をとるものもあった。近代では教育者,学者,政治家として業績を上げたものに,客家出身者が少なくない。…

※「洪秀全」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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