中国、太平天国の創始者。広州から50キロメートルほど離れた花県の客家(ハッカ)の農民の子。23歳のとき、科挙に三たび失敗し、熱病を病んだ際、天使に迎えられて昇天し、金髪の老人から、天下の人々を惑わし堕落させている妖魔(ようま)を退治せよとの使命を与えられ、天上で彼らと戦うという幻夢をみた。彼はかつて、偶然広州の試験場前で入手した新教系のキリスト教入門書『勧世良言』を読んで、かの老人こそは唯一の真の神天父上帝であり、妖魔とは中国にはびこる儒・仏・道教などのさまざまな偽りの神仏、偶像で、彼は上帝からこれらを一掃する聖なる使命を与えられたのだと確信し、1843年拝上帝教を創始した。彼はこの神をエホバ(ヤーウェ)と等置したが、実際は中国古来の人格神すなわち上帝を唯一神としたもので、キリスト教とは異質のものであった。彼は、すべての男は上帝から生命を与えられた兄弟であり、女は姉妹であって、一大家族として差別・対立のない世界に生きるべきだとして、その理想を孔子が『礼記(らいき)』「礼運篇(れいうんへん)」に記した大同に仮託して描いた。初期にはすべての人がこの正しい信仰にたち、上帝が教えた禁欲的戒律を守れば、この理想は実現されるとして、かならずしも地上の革命を考えてはいなかった。
1847年広西(カンシー)の桂平県で開始した偶像(神廟(しんびょう)、神像)破壊運動をきっかけに、支配秩序と激しく対立し、やがて清(しん)朝を最大の妖魔として打倒して、地上に天国を樹立するための革命に進んだ。1850年末に清軍との大規模な戦闘に入り、1851年に天王を称し、国号も太平天国として、1853年南京(ナンキン)を首都に新政権を樹立するまで、彼はその権威を十分に活用して、運動の実際面でも大きな役割を果たした。しかし、南京建都後は、政治、軍事の指導をもっぱら東王楊秀清(ようしゅうせい)(1820ころ―1856)にゆだね、壮麗な天王府の奥深く、多数の后妃に囲まれて暮らし、その宗教もしだいに神秘性を加えた。1856年の大分裂以後は、一族以外の部下を信頼せず、内部分解に拍車をかけた。南京陥落の20日前に病死したが、その死の真相は、曽国藩(そうこくはん)が湘軍(しょうぐん)の功を強調するため、李秀成(りしゅうせい)の供述書における秀全の病死という記述を、服毒自殺と改竄(かいざん)したため、長く隠されてきた。
[小島晋治 2018年6月19日]
『小島晋治著『洪秀全』(『人物中国の歴史9』所収・1981・集英社)』
中国,太平天国の創始者。広東省花県の客家(ハツカ)の中農の家に生まれた。幼名仁坤。1837年(道光17)3度目の府試(科挙の第1段階)に失敗した後,病んだ熱病の中で,天使に迎えられて天上に昇り,高貴な老人から,妖魔が跳梁する汚濁に満ちた下界の衆生を救えとの使命を与えられる幻夢を見た。のちに読んだ新教の布教用冊子《勧世良言》を自己流に解することで,彼はこの夢をキリストにつぐ上帝の次子である彼に与えられた上帝の啓示であると受けとり,〈拝上帝教〉を創始した。彼は中国古来の人格神である上帝を,ヤハウェと等置し,上帝以外に神はなく,中国に遍在するいっさいの偶像崇拝こそ中国人を堕落させた根源として,唯一神礼拝と禁欲倫理の厳守を説いた。彼は初めから地上の革命をめざしたのではなく,ただ万人の悔い改めと改宗によって,万人が上帝の子女,兄弟姉妹として助け合う,差別と対立なき大同世界の実現を夢見た。
のち広西の桂平,貴県などでおもに客家の貧農からなる教徒を率いて展開した偶像破壊運動を通じて,伝統的秩序をになう地主,郷紳,さらに清朝との対立を深めた。50年10月から12月にかけて,広西各地で清軍との戦闘に入り,翌年春,彼は天王を称し,秋には同省永安を占領して〈太平天国〉を樹立した。挙兵以後このころまでは,彼は士気の高揚や厳正な軍規の樹立に現実面でも大きな役割を果たしたが,以後軍・政の実権はしだいに東王楊秀清にゆだねられた。とくに53年(咸豊3)南京(天京と改称)占領後は壮麗な天王府を造営して多数の后妃に取り囲まれ,実際の指導から遊離した。56年東王の権力を排除しようとして悲惨な楊韋内訌を引きおこして,以後は無能な兄2人を要職につけて諸王を牽制するなど,しだいに人心を失った。反面,彼は最後まで〈万国の真主〉としての立場から西欧諸国の干渉政策に抵抗した。天京陥落前夜重病にかかり,宗教的信念に従って薬をいっさい拒否して病死した。
執筆者:小島 晋治
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1814~64
清末,太平天国の指導者。広東省花県官禄㘵(かんろくふ)の客家(ハッカ)。中農の出身。科挙の予備試験に数回失敗したのち,キリスト教からヒントを得て拝上帝教(上帝教,上帝会)を創始し,人間の政治的・経済的平等と邪教の撲滅を唱えた。広西の客家の間に多くの信者を集め,1851年1月桂平県金田村で太平天国の国号を建て,湖南,湖北を通って53年3月南京を陥れた。ここを天京と定めて四方を攻略し,長江流域を制圧したが,56年東王楊秀清(ようしゅうせい)が北王韋昌輝(いしょうき)に殺されると,彼は北王を誅した。さらに翼王石達開(せきたつかい)を遠ざけて有能な指導者を失い,みずからは安逸にふけってしだいに敗北を招き,ついに天京陥落の1月前に病死したといわれる。
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…孔子は,遠い古代には〈大道〉(すぐれた道徳)が行われていて天下は公有のものであったとされて,公平で平和な共産的理想社会を描き,それに反し,今日は〈大道〉がすでに隠れて,天下は一家の私有となり,私利私欲の横行する混乱した社会になったと嘆いている。この大同思想に似た,土地・家屋の均分公有という思想は,歴代の宗教的農民反乱のなかでしばしば提起され,19世紀中ごろの太平天国運動で,洪秀全が《原道醒世訓》の中で,理想とする新世界を〈礼運篇〉にもとづきながら説明しているのは,その典型といえる。 しかし中国伝統の大同思想を正面からとりあげて,壮大で詳細な社会理論に組み立てたのは,清代末期(19世紀末)の康有為が最初である。…
…1851年(咸豊1)広西に樹立され,のち南京を首都天京として,清朝,また末期にはイギリス,フランス干渉軍と戦って64年(同治3)に滅んだ中国の民衆的政権。
[太平天国の理想と挙兵経過]
母体は1843年(道光23)広東省花県の客家(ハツカ)の農民出の読書人洪秀全が創始した拝上帝教という宗教団体である。彼は科挙失敗後の病中に見た幻覚を,偶然手にしたプロテスタントの布教文書によって解釈し,みずからを堕落した中国を救う使命を真の神,天父上帝から与えられた者と確信した。…
…日常,女子が屋外の重労働に従事するのが特徴で,男子は海外に渡り鉱山で働くものも多いが,どこででも客家としての固い団結を作っている。他の漢民族から差別扱いを受けるので,社会に反感を抱き太平天国の洪秀全のように革命行動をとるものもあった。近代では教育者,学者,政治家として業績を上げたものに,客家出身者が少なくない。…
※「洪秀全」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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