日本大百科全書(ニッポニカ) 「社会主義国際分業」の意味・わかりやすい解説
社会主義国際分業
しゃかいしゅぎこくさいぶんぎょう
international socialist division of labour 英語
internationale sozialistische Arbeitsteilung ドイツ語
международное социалистическое разделение труда/mezhdunarodnoe sotsialisticheskoe razdelenie truda ロシア語
第二次世界大戦後、東ヨーロッパ、ついでアジア(新中国、北朝鮮、ベトナム)における社会主義諸国家の成立を受け、かつ冷戦という国際環境下で、世界資本主義の国際分業に対抗するものとして意図された国際分業をいう。イデオロギー的なたてまえとしては、先進資本主義諸国と開発途上諸国との間の不平等交換と搾取から自由な、平等互恵の国際分業をうたっていたが、実態としては冷戦による経済封鎖に対抗するための自給自足体制の確立を要(かなめ)としていた。
ヨーロッパからアジアに及ぶ社会主義の国際分業という壮大な見取り図も、1960年代以降の中ソ対立と、そのあおりを受けたルーマニアの離反などで虚構となり、現実に存在したのはコメコン(経済相互援助会議)の枠内における国際分業のみであったといえる。
しかし、コメコン域内国際分業も、二つの大きな矛盾に悩まされていた。第一に、国際分業といってもソ連からコメコン加盟諸国への資源供給を軸とした放射線状の結合が基本で、東欧諸国間の分業には見るべき成果は乏しかったからである。いわばソ連型計画経済システムの「背骨」であった生産財の行政的配分方式の国際版といえるもので、国際経済でもっとも重要な分業による経済効率は二義的とされた。1960年代後半から各国で試みられた経済改革は、市場機構の回復を軸としたものであったが、上記の物動型のコメコン協力方式はこれと矛盾し、その徹底を阻む大きな壁となった。1964年には国際経済協力銀行(通称コメコン銀行)が設立され、振替ルーブルtransferable roubleによる多角決済がうたわれたが、これもみるべき成果をあげなかった。各国とも厳密な相互協定による二国間の物資供給に拘束され、他方、西側に輸出して外貨を稼げる商品(いわゆる「ハード・グッズ」)はコメコン域内取引に回そうとせず、域内で過剰な商品(「ソフト・グッズ」)はさばけようがなかったからである。
もう一つの大きな矛盾は、技術革新と生産性の向上は、全世界的な国際分業と国際競争の場でのみ可能なものであるから、「社会主義国際分業」のたてまえをとっている限り世界的な技術革新の波から乗り遅れることであった。1973年の第一次オイル・ショック後、ソ連が東欧諸国に対する原油供給価格を段階的に引き上げる政策をとったことも、社会主義国際分業のメリットを弱めることになった。
1970年代末に表面化した東欧累積債務危機と、ソ連を含め1980年代に顕在化した低成長、スタグフレーションは、各国に抜本的な打開方向を求めるものとなった。市場志向をいっそう高めたハンガリーの改革第三波や、ゴルバチョフ政権下での経済改革構想の急進化はその一例だが、各国がそれぞれの方向に走り始めるにつれて「社会主義」国際分業は名存実亡となりつつあった。1989年の東欧革命後、ソ連の崩壊(1991年12月)に先だって1991年6月のコメコン第46回総会でコメコン解散が決議されたのは、その当然の帰結だったということができる。
[佐藤経明]