神保氏張(読み)じんぼ・うじはる

朝日日本歴史人物事典 「神保氏張」の解説

神保氏張

没年:文禄1.8.5(1592.9.10)
生年享禄1(1528)
戦国時代の武将。神保氏は越中守護畠山家の守護代家。氏張は庶流氏純の養子で,能登守護畠山義隆の次男という。射水郡守山城(富山県高岡市)を居城とし,天正5(1577)年,上杉謙信が侵攻してくるとこれに従ったが,翌年その死去により上杉方から離れ,同9年,越中に入国した織田信長方佐々成政に属して重用された。成政は,小牧長久手の戦の翌天正13年豊臣秀吉に下り,同15年の九州征討の際肥後に改易された。これにより氏張も肥後に移る。翌年肥後国人一揆が起こり,その責を問われて成政が刑死したのち徳川家康に召し出され,下総国香取郡の地を与えられている。子孫旗本として続いた。

(石田晴男)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「神保氏張」の解説

神保氏張 じんぼ-うじはる

1528-1592 戦国-織豊時代の武将。
享禄(きょうろく)元年生まれ。越中(富山県)守護代として守山城による。越中を制圧した上杉謙信麾下(きか)にはいる。謙信の死後,織田信長方の佐々成政(さっさ-なりまさ)の属将となり,肥後(熊本県)移封にしたがう。のち徳川家康につかえた。天正(てんしょう)20年8月5日死去。65歳。名は氏春とも。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の神保氏張の言及

【神保氏】より

…越中の中・近世武家。上野国多胡郡の出自で,惟宗(これむね)を姓とした。南北朝期に畠山氏に従って京都に上り,畠山基国の越中守護職就任にともなって越中にかかわる。1443年(嘉吉3)に神保国宗が守護代としてみえるのが越中での初見史料で,以後,放生津を拠点として婦負(ねひ),射水(いみづ)2郡に勢威を張る。神保長誠(ながのぶ)は畠山政長の執事として,畠山義就に対抗,67年(応仁1)京都上御霊社に挙兵して応仁・文明の乱の口火を切った。…

※「神保氏張」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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