禁裏御倉(読み)きんりおくら

改訂新版 世界大百科事典 「禁裏御倉」の意味・わかりやすい解説

禁裏御倉 (きんりおくら)

中世,禁裏の金銭・年貢米などの出納,御物保管,必要金の用立て,酒饌進献などを行った御用土倉(どそう)のことで,上下二つの土倉が任命された。名義は近世にも残り,明治維新まで及んでいる。また,その職掌,身分としての禁裏御倉職をいう場合もある。律令官衙機構が衰退した結果として,朝廷の金融や信託業務,財宝の保管など禁裏財政の主要部分を,特定の土倉を指定して請け負わせたもので,室町幕府の公方御倉と同様のものである。課役免除の特権を有したので,希望するものが多かった。

 すでに1334年(建武1),本御倉,新御倉が見られ,後醍醐天皇の石清水八幡宮行幸費用を扱っている。また,諸国課税を御倉に進納させている。1463年(寛正4)ごろの禁裏御倉は,正親町烏丸南頰の薬師堂倉の辻宗秀であり,この辻家は享禄(1528-32)ごろまで務めている。そのほかには,長享~明応(1487-1501)ごろの大橋宗長,明応ごろのさるや野洲弾正,永正~享禄(1504-32)ごろの中興藤四郎,享禄~天文14年(1528-45)の津田与二郎,天文17-天正10年(1548-82)の下京四条室町の長谷川氏,天正11年(1583)~明治までの下御倉職多氏(舞人)などがある。代表的なものは,上御倉を永正6(1509)~明治まで世襲した立入(たてり)氏であり,室町通中御門と春日通の間,大門町に住した。近江野洲郡立入に住していたが,後土御門天皇葬送費用献上の功によって御倉職に任ぜられ,上京したという所伝は事実と見ることができる。戦国末期には,徳政令徳政一揆の頻発するなかで,禁裏御倉のゆえをもって,徳政免除権を獲得,富貴となったと伝えている。これは享徳の徳政一揆に際して,禁裏御倉職である薬師堂倉辻宗秀が,一揆の襲撃,交渉によって,質物返却に応じているのとは,大きく状況を異にするといえよう。

 なお,禁裏内の倉を禁裏御倉という場合もあるが,これは〈御所御蔵〉などといわれる場合が多い。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

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