神明門前(読み)しんめいもんぜん

日本歴史地名大系 「神明門前」の解説

神明門前
しんめいもんぜん

[現在地名]港区芝大門しばだいもん一丁目

芝神明の東に位置する同社門前地。芝神明しばしんめい門前ともいう。片側町で、北は芝三島しばみしま町・芝神明境内、東は神明町・芝七軒しばしちけん町、南は同町と芝中しばなか門前一丁目、西は芝神明境内。

寛永年中(一六二四―四四)からしだいに神主禰宜の所持する地面町屋が建てられるようになり、寺社奉行支配となった。沿革図書によると延宝年間(一六七三―八一)の図には「神明門前丁」とみえる。正徳三年(一七一三)八月に増上寺表門通りが広道となった際、南側の南北二間・東西五〇間余、一〇一坪余の地面が用地として召上げられ、神田に代地を与えられて神田三島かんだみしま(現千代田区)と唱えた。延享二年(一七四五)一二月に町奉行支配となった。寺社地のため名主不在で月行事持であったが、町奉行支配となったことを受けて、寛延二年(一七四九)九月中に神明町名主孫右衛門支配となった。宝暦八年(一七五八)八月芝神明別当金剛こんごう院持地面のうち、田舎間で東西七間・南北三〇間、二一〇坪の場所に町屋を建てることが許され町奉行支配となった。

神明門前
しんめいもんぜん

[現在地名]江東区常盤ときわ二丁目

神明宮の南側にある門前町屋。深川神明ふかがわしんめい門前とも称した。西は六間堀ろつけんぼり町、南は遠江浜松藩井上家中屋敷・常盤町一丁目、東は深川元ふかがわもと町。文政町方書上によれば、元禄八年(一六九五)検地の際神明宮社地として一千五八八坪が別当泉養せんよう寺持と定められたが、延享三年(一七四六)三月にそのうちの四九九坪余の地所が門前家作御免となり、町奉行支配となった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報