神納村
かんのうむら
[現在地名]袖ケ浦市神納
浮戸川下流の右岸に位置し、西は奈良輪村。貞治元年(一三六二)一二月一八日の三浦貞清寄進状(尊経閣文庫)に飫富庄内「本納加納両郷」とみえる加納郷は当地にあたると考えられ、八反免・納免・そり田・神祭文田などの地名がある。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高七〇七石。正徳期(一七一一―一六)には幕府領・旗本大久保領と与力三人の給知(多田家文書)。寛保―宝暦年間(一七四一―六四)には佐倉藩領があり(同文書)、寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では三卿の清水領、旗本中根・駒木根の二家領が加わり、天保一〇年(一八三九)には旗本大久保・石川の二家領と与力給知、貝淵藩領(鳥飼家文書)。
神納村
かのうむら
[現在地名]津市神納町・博多町・新町三丁目・八町三丁目・桜田町
安濃川が下流で蛇行し、北方へふくれ出た内側の堤防下に集落があり、南が八町の西端に接する。迂曲した川の東方に刑部村があり、東側の対岸が納所村である。村名について「五鈴遺響」は「納所ニ対スル名ニシテ、神厨ノ税貢ヲ取ル所ナリ」といい、「布留屋草紙」は「貞観十一年神戸ニ加納ス、今里ノ名トナル」と記している。また元徳元年(一三二九)の安東郡専当沙汰文の安東郡神田作人のなかに「金輪乙石四郎」「金輪閇王六郎」など「金輪」の地名を冠した人物が四名現れており、「金輪」は「かのわ」であって、当時はこの字を用いていたと推定する説もある。
神納村
かんのうむら
[現在地名]西区神出町宝勢
印南野台地北東部に位置し、北は神出田井村。明石藩の開墾策によって元禄四年(一六九一)から開発された(采邑私記)。元禄郷帳に「神納村」とみえ、高五〇石余。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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