出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
美濃国(岐阜県)厚見郡の城下町,中山道の宿駅。近世では上加納村(のち4村に分村),御園町,加納町,下加納村をさすが,御園町は正確には上加納村の一部であり,加納町も上・下加納両村にまたがって形成されたものである。1601年(慶長6)加納藩の創設にともない,加納城(中世の斎藤利永の城跡)と城下町建設が開始されたが,その際に岐阜城が解体されて加納城に使われ,また岐阜町辺の古家材なども用いられたという。織田信長の制札で有名な加納楽市場(加納市)は,上加納にあった円徳寺門前の寺内町といわれ,のちの加納町とは少し位置が違うように思われるが詳しいことは現在のところ不明。加納町は城の西・北に家臣団の屋敷が,町屋はおもに中山道沿いにある。この町屋の配列や,城門の一つが中山道を扼(やく)する位置にあること,宿役を負担する21町が本来の町として地子免除されていること,加納町の北には岐阜町が,北西の長良川には鏡島湊,南東の木曾川には笠松など他領の有力な商業・流通の要地に囲まれていることなどから推して,加納城・加納町はおもに中山道をおさえる目的で創設されたと思われる。加納宿は1634年(寛永11)に,公道としての岐阜街道廃止によって正式に定められたというが,宿機能の整備・充実は17世紀中ごろである。商業都市としての発展は,17世紀末以降のようであり,1755年(宝暦5)の記録には,本陣,脇本陣問屋,岐阜問屋のほか,旅籠屋・商人宿五十数軒,医師7軒,諸職141軒,諸商売74軒,惣町家数898軒などとある。加納藩は当初の10万石から漸次縮小されて,永井氏の時代には加納周辺には2万3000石しかないという小藩になってしまったことが,城下町加納の発展を阻害したと考えられる。しかし近世中期以降の周辺地域での木綿生産・織業の発展,家臣の手内職にもなった傘製造の盛行につれて,岐阜町など他領商人の排除などを意図して幕末期には加納町や領内の有力商人と藩との綛糸(かせいと)と傘の専売制が実施されて,加納傘の名が広く知られる一因となった。1940年岐阜市に編入。
執筆者:松田 之利
11~12世紀の荘園発展期において,荘地拡大の一手段として,荘民が出作している公田や,荘内に一部入作している公民の耕作する公田等を,荘田と主張し本免田(免田)の付属地として荘内にとり込むことをいい,そのような田地を加納田という。本免田を本田というのに対して,加納田は加納余田ないし単に余田ともいう。1069年の延久の荘園整理令は,1045年の寛徳整理令以後の新立荘園の停廃とともに,このような加納余田の収公を眼目としたが,院政期には新立荘園が増加するとともに,既存の荘園は広大な加納田を加えて,一円不輸の荘園として確立していった。本免田25町から出発し,杣工(そまく)の出作公田や,入作公民の耕作する公田を加納田としてとり込み,平安末期には300町をこえる大荘園として完成した東大寺領の伊賀国黒田荘の拡大過程は,その典型的ケースとして著名である。
執筆者:工藤 敬一
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岐阜市南部の一地区。旧加納町。JR岐阜駅の南に位置し、名古屋鉄道本線の加納駅がある。江戸時代には加納藩の城下町、中山道(なかせんどう)の宿場町であった。関ヶ原の戦い(1600)後、徳川家康はこの地に着目し、西に対して備えるべく、岐阜城を廃して加納の旧城を拡充修築させ、奥平(おくだいら)氏10万石の居城とし、江戸幕府の軍事的拠点とした。その役割はのちに失われ、禄高(ろくだか)3万2000石に縮小されるに伴い、藩勢が衰え、藩士は窮迫して、和傘製造の内職に頼らねばならなかった。この和傘製造は、伝統工業として現在も受け継がれている。加納城跡は国の史跡となっていて、加納公園として整備されている。
[上島正徳]
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