神西郡(読み)じんさいぐん

日本歴史地名大系 「神西郡」の解説

神西郡
じんさいぐん

播磨国中北部、おおむねいち川の上中流域右岸に位置する。古代の神埼かんざき(神前)郡が東西に分れて成立(→神崎郡。明治一七年(一八八四)の「地名索引(内務省地理局編)によると読みは「ジンサイ」、「ジンザイ」とも読む。東から南は神東じんとう郡、西は飾西しきさい郡と宍粟郡、北は但馬国朝来あさご郡に接した。現在の行政区画では大河内おおかわち町と香寺こうでら町の全域、市川いちかわ町・福崎ふくさき町・生野いくの町の一部と姫路市のごく一部にあたる。

〔中世〕

平安時代後期には成立していたと思われ、西播磨に属した(→神東郡。郡内の庄園・公領は大河内おおこうち庄・新野にいの(現大河内町)永良ながら庄・甘地あまじ(現市川町)高岡北条たかおかほうじよう郷・高岡南条郷・高岡庄(現福崎町)的部いくはべ北条・的部南条郷(現香寺町)などがあった。寛喜二年(一二三〇)二月小山朝政は播磨国守護奉行職と高岡庄・高岡北条郷等を嫡孫長村に譲った。小山氏の所領は地頭職と考えられる。ただし守護就任に伴い梶原景時の所領を獲得したものか、承久の乱後の新補かどうかは不明。これ以前の貞応元年(一二二二)七月鎌倉幕府は基康(姓未詳)永良庄地頭職を停止している。基康は新補地頭とみられる。

姫路から但馬国へは郡内の真弓まゆみ(現生野峠)を通る道が便利であった。多可たか大山おおやま(現神崎町)の手前に位置することから大山口とよばれる。南北朝の動乱以後但馬国守護山名氏がしばしばこの峠を越えて播磨国へ侵攻、観応二年(一三五一)一二月には後藤基景が赤松則祐に属して大河内庄で山名勢と戦っている。嘉吉の乱の際にもここから攻め入った(赤松記)。文明一五年(一四八三)一二月には、守護赤松政則真弓峠を朝来郡側へ越えようとしたが、山名政豊の兵に大敗を喫して敗走

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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