神東郡(読み)じんとうぐん

日本歴史地名大系 「神東郡」の解説

神東郡
じんとうぐん

播磨国中北部、おおむねいち川の上中流域左岸に位置する。古代の神埼かんざき(神前)郡が東西に分れて成立(→神崎郡元禄郷帳、明治一七年(一八八四)の「地名索引(内務省地理局編)によると読みは「ジントウ」、「ジンドウ」とも読む。東は多可たか郡・加西郡、南は飾東しきとう郡、西は神西じんさい郡、北は但馬国朝来あさご郡に接した。現在の行政区では神崎町・市川いちかわ町・福崎ふくさき町、姫路市の一部を占める。

〔中世〕

保延七年(一一四一)六月二三日の鳥羽院庁下文案(九条家文書)に「神崎東郡川述南条」、九条満家公引付(同文書)永享三年(一四三一)一〇月条所収の文治二年(一一八六)六月二一日付後白河上皇所領寄進状案には「神東郡内蔭山南条」とあり、平安時代後期には神東郡が成立していた。播磨国を東西に二分する場合、神東郡は東播磨、神西郡は西播磨に属する。郡内の庄園・公領は蔭山かげやま(現姫路市)のほか、吉殿よしとの庄・粟賀あわが庄・貝野かいの(現神崎町)牛尾うしお庄・世賀せか庄・川辺かわのべ(河辺・川述)北条ほうじよう田中たなか(現市川町)などがあった。保延七年の前掲鳥羽院庁下文案にみえる田原たわら(現福崎町)の本家職は八条院領で、同院領は治承四年(一一八〇)以仁王・源頼政の挙兵の財源に充てられたという。また奈良興福寺領吉殿庄と世賀庄、摂関家渡領の粟賀庄、九条家領の蔭山庄など、当郡は反平氏勢力の寺院・貴族の庄園が多い。姫路からほぼ市川沿いに走る二本の道は朝来郡へと通じている。どちらかといえば左岸の神東郡側が本道であった。蔭山庄・田原庄田中庄・川辺北条・貝野庄・粟賀庄・吉殿庄を通り、多可郡の大山おおやま(現神崎町)を経て神西郡の真弓まゆみ(現生野峠)に至る。動乱期には諸軍勢が通過し、神東郡はそのたびごと史上に登場し、当郡の中世はさながら合戦の歴史である。

暦応四年(一三四一)三月、京都を出奔して本国出雲へ向かう佐々木高貞が影山(蔭山)で自害したという。但馬国の山名氏に行手をさえぎられたことによる。観応二年(一三五一)一二月二一日には後藤基景が赤松則祐の田原の陣に馳せ参じている(正平七年二月一二日「後藤基景軍忠状」後藤文書)。文和二年(一三五三)二月には但馬・丹波両国の南朝軍が播磨へ侵攻、赤松則祐配下が粟賀庄の法楽ほうらく(現神崎町)へ出陣した。安積盛兼と広峯則長も従軍して三月八日の蔭山庄における合戦で軍忠をあげている。文明一五年(一四八三)一二月の赤松政則の但馬出兵時にも、大賀(粟賀)に本陣が置かれた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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