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赤松範資 あかまつのりすけ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

赤松範資
あかまつのりすけ

[生]?
[没]正平6=観応2(1351).4.8.
南北朝時代の武将。則村の嫡子。元弘の乱に父および一族とともに,京都の六波羅攻略に功を立てた。のち足利尊氏挙兵に応じ,尊氏の再挙を支えた赤松氏の勲功によって,父は播磨守護に,範資は摂津守護に補せられた。摂津守護在職は延元2=建武4 (1337) 年から,一時期を除いて没年まで続いた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

赤松範資 あかまつ-のりすけ

?-1351 鎌倉-南北朝時代の武将。
赤松則村の長男。赤松七条家の祖。正慶(しょうきょう)2=元弘(げんこう)3年(1333)父とともに討幕の兵をおこし,建武(けんむ)の新政後は足利尊氏にしたがい摂津守護となる。父の死後,播磨(はりま)守護をかね,観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)では尊氏方にくみした。観応2=正平(しょうへい)6年4月8日死去。法名は摸叟世範。

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世界大百科事典 第2版の解説

あかまつのりすけ【赤松範資】

?‐1351(?‐正平6∥観応2)
南北朝時代の武将。1333年(元弘3)護良(もりよし)親王の令旨をうけて父則村とともに北条氏追討の兵を起こす。35年(建武2)足利尊氏の挙兵に応じ建武政府と戦い,その戦功により翌年摂津守護に補任された。50年(正平5∥観応1)父則村死去ののち惣領職を継ぎ一族の中心となり,観応の擾乱(じようらん)が起こると尊氏に党して奮戦したが,51年急死した。【鳥居 和之】

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

赤松範資
あかまつのりすけ
(?―1351)

南北朝時代の武将。則村(のりむら)の嫡子。鎌倉末期に摂津国長洲(兵庫県尼崎(あまがさき)市長洲町)御厨(みくりや)の執行職(弟貞範(さだのり)は惣追捕使(そうついぶし))、九条家領輪田庄(わだのしょう)地頭職を得て、海陸交通の要衝である同国沿岸部を押さえた。元弘(げんこう)の乱に活躍し、建武(けんむ)政権の成立に力を尽くしたが、足利尊氏(あしかがたかうじ)が背くと父円心(えんしん)(則村)とともにその与党になり摂津国守護職に任ぜられる。1350年(正平5・観応1)円心死没後、赤松氏惣領になり、播磨(はりま)国守護職を兼ねるが、翌1351年4月京都七条邸に没す。跡は弟則祐(そくゆう)が継いだが、摂津国守護職は嫡子光範に分与された。諡号(しごう)は霊光院殿摸叟世範。[岸田裕之]

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