福島新田(読み)ふくしましんでん

日本歴史地名大系 「福島新田」の解説

福島新田
ふくしましんでん

[現在地名]栄町福島新田

東光寺とうこうじ村の北西に位置し、北は猪子場いのこば新田と接する。元禄一一年(一六九八)の新田年号并枝村方角道法付(新発田市立図書館蔵)によれば、東光寺村を親村として慶安元年(一六四八)の開発。寛文七年(一六六七)と推定される御領内見分之書付(貴船家文書)によれば、物成高二一六石四斗余、家数五六・人数三〇二。延宝四年(一六七六)の鍛冶役之覚帳(溝口家文書)には「福島村」とあり、鍛冶屋が一人いて役銀五匁を納めている。寛政元年(一七八九)幕府領となった。近世初期の開発によって枝郷も開発されており、同八年頃の郷村帳(鈴木正幸氏文書)では、元禄郷帳の村高二六六石九斗は福島新田一一七石二斗、「福島新田之内浦新田」八九石四斗、「福島新田之内曾根新田」六〇石三斗と分れている。

福島新田
ふくしましんでん

[現在地名]岩間町福島

愛宕あたご山の南東にあたり、北は岩間下郷いわましもごう。もとはいずみ村の内にあったが、慶安三年(一六五〇)天領となり、郡代伊奈半十郎の時に開発が始められ、土浦藩領の寛文五年(一六六五)検地では田は下田八斗、畑は中畑八斗・下畑五斗、屋敷一石の石盛で一五三・二二三石の出高があり、正徳元年(一七一一)に新田開発はいちおう終止符を打つ。その間延宝六年―貞享四年(一六七八―八七)の一〇年間に平均一割七分余、元禄元年―一〇年(一六八八―九七)は平均一割九分余、同一一年―宝永四年(一六九八―一七〇七)は一割六分余の増高となり、幕末には村高二〇九・一九石となる(「岩間領五ケ村帳」長嶋家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

事典・日本の観光資源 「福島新田」の解説

福島新田

(長野県飯山市)
日本の棚田百選指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報