稲光村(読み)いなみつむら

日本歴史地名大系 「稲光村」の解説

稲光村
いなみつむら

[現在地名]若宮町稲光

たいら村の南西犬鳴いぬなき川支流黒丸くろまる川流域に位置する。南部は丘陵地で、東は高野たかの村。「続風土記」は枝郷として恵比えび(下稲光)をあげ、「続風土記拾遺」によれば、人家は上稲光・下稲光・やまくちなどにあった。観応三年(一三五二)書写の安楽寺領注進状の半不輸の項に「稲光内」とあり、近年安房前入道により、灯油料所として安楽寺(太宰府天満宮)に寄進されている。文和二年(一三五三)三月七日、宗像大宮司氏俊は足利義詮から「筑前国鞍手郡芹田・稲光両村」を宛行われ(「足利義詮袖判下文案」宗像大社所蔵文書/南北朝遺文(九州編)三)、至徳三年(一三八六)二月九日、今川了俊は同地を安堵している(同下文案裏書/南北朝遺文(九州編)六)。明応九年(一五〇〇)四月五日書写の宗像社社領注文(余瀬文書/大分県史料二五)には「稲光村五拾町」とある。天正六年(一五七八)六月一日の第一宮御宝殿御棟上之事置札(宗像大社蔵)の「御領中人夫之事」に「稲光村」がみえる。

稲光村
いなみつむら

[現在地名]大山町稲光

末吉すえよし村の南にあり、江東こうとう川が北を北西流する。建武四年(一三三七)一〇月一九日の足利尊氏下文(丹波波々伯部文書)に「伯耆国稲光保」とみえる。中世末には大山領で、慶長五年(一六〇〇)以降米子城主中村氏により没収されたらしい。中村氏改易後の同一五年、西楽さいらく院僧正豪円が返付を求めた大山領のうちに稲光が含まれる(「豪円書状写」西伯郡自治史)。藩政期の拝領高は四一二石余、本免は三ツ七分。和田氏・山本氏・野崎氏・依藤氏の給地があった(給人所付帳)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」では高四九〇石余、竈数四〇余、天保九年(一八三八)の御巡見様御通行万端袖控(橋井家文書)では家数五八。

稲光村
いなみつむら

[現在地名]豊田町大字稲光

豊田平野の南東部に位置し、北と東は殿敷とのしき村、南は日野ひの村、西は山本やまもと川を境になか村に接する。長府藩領で豊浦郡豊田筋に属する。

西市町にしいちまち紅粉屋家の正保四年(一六四七)の文書に稲光とみえる。「地下上申」は総高四〇七石余、うち田方三八九石余、畠方一七石余、家数四三、人口一八七人と記し、全村が蔵入地。

稲光村
いなみつむら

[現在地名]苅田町稲光

葛川くずがわ村の西に位置し、高城たかじよう山南麓の低丘陵上に集落が形成されている。元和八年人畜改帳に村名がみえ、高一千六五石余、家数九〇・人数一六〇(うち惣庄屋一・百姓一八・名子一三・山ノ口一)、牛二一・馬一三。郷村高帳では高一千一一五石余、うち新田高三二八石余。旧高旧領取調帳では高一千九九石余。字甲斐屋敷かいやしきの西山浄土宗専光せんこう寺は義通眼海が開基し、初め真言宗であったが、慶玉の時に浄土宗に改めたという(京都郡誌)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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