若宮町(読み)わかみやまち

日本歴史地名大系 「若宮町」の解説

若宮町
わかみやまち

面積:八七・五〇平方キロ(境界未定)

鞍手郡の南西部に位置し、北は宗像市・宗像郡福間ふくま町、東は宮田みやた町、南は飯塚市・糟屋かすや篠栗ささぐり町、西は同郡久山ひさやま町・古賀市と接している。町の中央部を遠賀おんが川支流の犬鳴いぬなき川が流れ、福丸ふくまるで同川に黒丸くろまる川・山口やまぐち川が合流する。また鉾立ほこたて山から発する八木山やきやま川が町の南東部を流れて宮田町に入り、同町宮田字弁鳥べんどりで犬鳴川と合流する。町の西部には西にし山・犬鳴山、南部には鉾立山・すが嶽などがそびえる。町の北端部を東西に九州自動車道が走り、若宮インターチェンジがある。また中央部を山陽新幹線が横断する。

金生かのうは「和名抄」にみえる古代鞍手郡金生郷の遺称地とされる。同郷は朱鳥元年(六八六)観世音寺(現太宰府市)に施入された封戸であったと考えられ、一二世紀初頭までには庄園化し、のちに観世音寺が東大寺の末寺となったため、以後は東大寺の支配を受けた。中世の町域は若宮庄に含まれた。建武五年(一三三八)以降、山城醍醐寺三宝院が同庄を支配するが、南北朝期には武藤肥前守や開田遠員らの侵略にさらされた。応永年間(一三九四―一四二八)宗像氏経が若宮庄の代官職を得るが、同三一年に同庄は大内徳雄(盛見)に与えられ、その後は大内氏の影響力が強まっていく。


若宮町
わかみやまち

[現在地名]二本松市若宮

二本松城下六町の一つで、城下の西端にある。延享二年(一七四五)郷村高辻帳(二本松市史)に町名がみえ、二〇六石余の高付がなされている。杉田組郷高帳(同書)には古高二〇六石余、宝永二年(一七〇五)の検地高本田一五一石余・新田一〇石余とあり、天保郷帳では三〇七石余、旧高旧領取調帳では二二〇石余と数値の変動が大きいが、理由は不明。町名は慶安二年(一六四九)の町割以前から鎮座している若宮八幡宮に由来すると思われるが、同宮鎮座の時期は明確ではない。


若宮町
わかみやちよう

下京区若宮通六条上ル

南北に通る若宮通両側町。町内南寄りを東西に花屋町はなやちよう通が通る。

平安京の条坊では、左京七条三坊一保一町の地。

当地には、天喜五年(一〇五七)一二月、源頼義が後冷泉天皇の勅を奉じて創建したという若宮八幡わかみやはちまん(佐女牛八幡)が鎮座していた。当社は源頼朝が源家の氏神として崇敬したことにより興隆するが、室町時代に入り、将軍家の保護はさらに厚く、石清水八幡いわしみずはちまん(現京都府八幡市)三条坊門八幡さんじようぼうもんはちまん(現中京区)とともに度々将軍家社参があった。


若宮町
わかみやちよう

下京区木屋町通七条下ル東入共

南北に通る須原すはら通を挟む両側町。

平安京の条坊では左京八条四坊一六町北側の地である。

妙法院(現東山区)門跡領の耕地で、「坊目誌」によれば文政(一八一八―三〇)の頃に町地となったが、天保二年(一八三一)の図には「単に南裏と書入ありて、其南に水車場と註せり」と記している。


若宮町
わかみやちよう

下京区高倉通花屋町下ル

南北に通る河原町かわらまち通の西側に所在。

平安京の条坊では左京七条四坊一保八町東南隅、同七町東北隅と左京七条四坊四保九町西南隅、同一〇町西北隅、平安中期以降は左女牛万里小路の南の地。

寛永一四年(一六三七)洛中絵図には「西大工町」とあり、寛永以後万治以前京都全図及び寛文後期洛中洛外之絵図に「若宮丁」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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