稲田氏会所跡(読み)いなだしかいしよあと

日本歴史地名大系 「稲田氏会所跡」の解説

稲田氏会所跡
いなだしかいしよあと

[現在地名]脇町猪尻

代々徳島藩の家老洲本城代を勤めた稲田氏が、美馬郡を中心とした阿波国の給地を支配するために猪尻いのしり村に置いた役所。一般に猪尻役所、あるいは郷役所などとよばれた。天正一三年(一五八五)蜂須賀家政の阿波入部に伴い、脇城には稲田稙元(左馬允)を兵三〇〇(五〇〇とも)とともに置いた。大坂の陣ののち、蜂須賀氏は戦功により淡路一国を加増され、家政は稲田氏をはじめとする上級家臣に淡路の支配を命じた。寛永九年(一六三二)稙元の子修理亮(示稙)に淡路への引越が命じられ、示稙は脇城から洲本城に移った(「蜂須賀記」「阿淡年表秘録」など)。元和の一国一城令を受け、寛永一四年に脇城が廃城となると、脇町は稲田氏の知行から藩蔵入地に転じ、稲田氏は脇町の屋敷を猪尻村の吉野川沿いの当地に移し、併せて美馬郡を中心とする阿波国の所領支配の拠点とした(「脇町成行之記録」脇家文書など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報