アメリカ・スペイン戦争(読み)あめりかすぺいんせんそう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「アメリカ・スペイン戦争」の意味・わかりやすい解説

アメリカ・スペイン戦争
あめりかすぺいんせんそう

スペインキューバの独立戦争に、1898年アメリカ合衆国が介入してスペインを破り、植民地を奪った帝国主義戦争。1895年2月、キューバでホセ・マルティ指導の第二次独立戦争が始まり、革命軍は島の東半分を解放し、1897年秋革命政府を樹立、スペインは大軍を派遣して残虐な鎮圧作戦に訴え、長引く動乱のため島は荒廃した。一方、同じくスペイン領のフィリピンでも独立の機運が高まり、1896年8月独立革命が勃発(ぼっぱつ)、その後一時挫折(ざせつ)したものの1898年に入って再燃していた。アメリカは、キューバに約5000万ドルの投資と年間1億ドルを超える貿易利害をもち、また、ラテンアメリカ市場と中米地峡運河地域へのルートを扼(やく)するカリブ海要衝として、キューバに戦略的関心を抱いていた。キューバの動乱はこの利害を脅かし、またスペイン軍の残虐行為を憤り「自由キューバ」に同情するアメリカ世論は、革命軍を援助するよう望んでいた。これに対してマッキンリー政府は、革命軍を承認せず、スペインが自ら島の平和を回復することを期待しつつ事態を見守っていたが、1898年の初めこの望みが断たれるに及んで、アメリカの一方的介入による解決に向かった。同年2月に起こったデローメ事件とメイン号爆沈事件、それらを利用した「黄色新聞」の扇動と世論の激高、および経済界主流の戦争支持への転換などが政府の決意を固めさせた。こうして4月11日マッキンリー大統領は議会開戦教書を送り、キューバ共和国を支援するためではなく、アメリカ自身の利益を守るために干渉する意図を明らかにした。議会は激論のすえ、平和回復後キューバを独立させるという条件付きでこれを承認、4月25日正式に宣戦が布告された。

 最初の戦闘は、フィリピン戦線でのデューイ提督麾下(きか)のアジア艦隊によるマニラ湾急襲とスペイン艦隊撃破であった(1898年5月1日)。デューイはその後アギナルドのフィリピン革命軍を利用してマニラを包囲し、のちに到着した地上軍が8月13日マニラに入城した。しかしアギナルド軍はマニラから排除され、マロロスへ退去した。一方、カリブ海戦線では、キューバのサンティアゴ攻略が主目標とされ6月末アメリカ陸軍1万6000がキューバ革命軍の援助のもとに上陸、海軍も、サンティアゴ港脱出を図ったスペイン艦隊を撃破した。最後にアメリカ軍と革命軍はサンティアゴを攻撃、7月16日陥落させたが、革命軍は降伏条約の調印参加を拒否された。こうして戦闘は4か月で終わって、8月12日休戦協定がなり、舞台はパリ講和会議に移った。フィリピンとキューバの代表を排除して12月10日にアメリカとスペインとの間で結ばれた講和条約は、スペインがキューバを放棄し、フィリピン、グアム、プエルト・リコをアメリカに割譲し、アメリカはスペインに2000万ドル支払うことを約した。この「すばらしい小戦争」(ジョン・ヘイ)の結果アメリカは、戦争中に併合したハワイをも含めて一大植民帝国を実現し、世界強国として帝国主義の道に乗り出した。しかしキューバとフィリピンの革命は、アメリカ軍政下で押しつぶされ、それぞれ保護国と植民地の運命をたどることになる。

[高橋 章]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アメリカ・スペイン戦争」の意味・わかりやすい解説

アメリカ=スペイン戦争
アメリカ=スペインせんそう
Spanish-American War

米西戦争とも呼ばれる。 1898年キューバ問題をめぐってアメリカとスペインの間で行われた戦争。スペイン領植民地であったキューバは,長い間本国政府の圧政に苦しんでいたが,95年キューバ解放を求めて反乱を起した。これに対し,キューバに経済的関心をもつアメリカでは,当時強くなっていた「文明国の責任」という考えや,アメリカの新聞がスペイン本国の圧政的統治をセンセーショナルに報道したことも加わって,キューバ人への同情とキューバ干渉論が高まった。 98年2月 15日,ハバナ港に停泊中のアメリカ軍艦『メーン』号が原因不明の爆発で沈没し,260人の死者を出すと,干渉論は一挙に高まり,アメリカ大統領 W.マッキンレーはスペインに対し,キューバに自治を与え,内乱を終結させるよう要求したあと,4月 11日開戦の教書を議会に送った。同月 20日議会は開戦を決議した。この戦争は戦闘開始の5月1日からわずか 10週間でアメリカの圧倒的な勝利に終ったが,この間マニラ湾では6隻のアメリカ艦隊が 10隻のスペイン艦隊を完全に壊滅させ,さらにアメリカ軍はキューバ,プエルトリコを占領した。アメリカ軍の全損害は死者 5462名,そのうち戦闘中の戦死者は 379名で,残りは伝染病その他の犠牲者である。平和条約は同年 12月 10日パリで結ばれたが,これによってアメリカはキューバを事実上の保護国とし,プエルトリコ,グアム,フィリピン諸島を獲得した。なおフィリピンの領有をめぐっては,領有を主張する者と,大陸以外に異質の住民のいる土地を獲得することは帝国主義的であるとして領有に反対する者との間に,激しい帝国主義論争が行われた。フィリピン領有により,アメリカはアジアに植民地を獲得し,アメリカの対アジア政策は一大転期を迎えることになった。

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