立川銅山(読み)たつかわどうざん

日本歴史地名大系 「立川銅山」の解説

立川銅山
たつかわどうざん

[現在地名]新居浜市立川山

新居郡立川山たつかわやま南端、標高九〇〇―一二〇〇メートルの高所にあり、別子べつし銅山の北に隣接していた。長谷ながたに銅山ともいう。宝暦一一年(一七六一)住友家から幕府巡見使に提出した「立川御銅山仕格覚書」に「伊予国新居郡立川山村之内長谷御銅山百余年以前一柳監物様御領地之節始相稼」とあることから、別子開坑に先立つ五、六〇年以前、寛永(一六二四―四四)頃から開坑されていたものと思われる。寛永谷・寛永間符まぶ(坑道)地名からも察せられる。西条藩は、開坑以来請負の銅山師に経営の一切を任せたが、請負人は西条町の戸左衛門をはじめとして、土佐の寺西喜助、紀州の熊野屋彦四郎、大坂の渡海屋平左衛門、大坂屋吉兵衛と転々として交代し、別子銅山開坑の翌元禄五年(一六九二)には、金子かねこ村の真鍋弥一右衛門が請負人となった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の立川銅山の言及

【住友家】より

…近世の商家。住友財閥の前身。住友家は,2代友以(とももち)が京都で銅商泉屋を興し,1620年代から大坂を本拠として銅の精錬・輸出と外国品の輸入という家業の基礎を固め,3代友信,4代友芳の時代に諸銅山の稼行,江戸・長崎出店の設置,両替・為替業へ進出して,隆盛期を迎えた。また事業上の担保として家屋敷数十ヵ所を所有するとともに質地の流れ込んだ山本新田などの田畑を経営し,幕末には別子銅山の近辺で飯米用の新田を開発した。…

【別子銅山】より

…さらに請負年季は5ヵ年であったが,実質的に永代請負となったことは,江戸時代の鉱山稼行として画期的なものといえる。隣接した立川山(たつかわやま)村域の立川銅山は西条藩領であったが,04年(宝永1)幕領となり,49年(寛延2)泉屋の江戸店手代名儀で稼行を許され,62年(宝暦12)名実ともに別子・立川両銅山は泉屋の一手稼行となった。しかし,別子の産銅は18世紀に入りしだいに減り,1718年(享保3)600tを割り,立川併合後も明治以前には年産600tをわずかに超えたのは数ヵ年である。…

※「立川銅山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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