立石上村(読み)たていしかみむら

日本歴史地名大系 「立石上村」の解説

立石上村
たていしかみむら

[現在地名]山香町立いし吉野渡よしのわたり

山浦やまうら村北東の吉野渡村とさらに北に位置する山口やまぐち村を合せた旗本木下領(立石領)の村。幕府へ提出した郷帳では各々一村として高付されているが、立石領の村としては両村は中村とされ、合せて立石上村とよばれた。吉野渡村を構成する小村は吉野渡・楠原くすのきばる野地のじ荒平あらびらの四村、山口村の小村は大月おおつき(大土器)宮脇みやわきふね(舟)まつ・山口・五徳寺ごとくじの六村(「下村庄屋行平覚書」安東家文書)

〔中世〕

立石は山香郷の別名として平安時代末に開かれたと推測される。山香郷地頭職系図(志手文書)には平安時代末頃の大神貞房が「立石地頭」と記される。山香郷と同様に郷司大神氏の開発によって成立した村であろう。鎌倉時代末期と推定される弥勒寺領諸庄供米注文(永弘文書)には「立石倉成四斗」とみえる。豊後国弘安図田帳には「立石村四十余町 豊前九郎入道明真跡、彦四郎」とあり、豊後国弘安田代注進状には「立石村四十四町 豊前九郎入道明真跡、同彦四郎盛道法師 法名良恵」とある。豊前九郎明真は大友能直の九男能職(能基)のことであり、彼は伊予国の河野四郎通信の婿となっている(藤姓大友系図)。大友能職から所領を受継いだ彦四郎盛道は河野一族であり、能職の血縁者と思われ、山香立石の河野氏の祖となる。現在、立石のりゆうには三島神社が祀られているが、これは元応二年(一三二〇)河野通秀が伊予の三島神社(現愛媛県大三島町大山祇神社)を勧請したものといわれる。近くにあった延福えんぷく寺は河野氏の氏寺であり、永正九年(一五一二)四月二一日の合妙山延福寺領田数注文(河野広文書)には一町二反余の寺領が書上げられている。永徳三年(一三八三)七月一八日の大友親世所領所職等注文案(大友文書)には「(山香)郷立石村付鬼丸名」とみえ、立石村の地頭職は大友氏に戻ったようであり、これ以後河野氏は地頭としては現れなくなり、その一族の一部は山を越えて田染たしぶ庄の小崎おさき(現豊後高田市)の奥の谷に進出し、さらに田染盆地へ出て近世には田染組大庄屋となる。

永享七年(一四三五)、同八年の姫岳ひめだけ合戦では大友持直を攻めるために、室町幕府方の大友親綱軍や大内軍が山香まで進出し、大内方の吉川経信は立石城を守っている(永享七年一〇月二七日「室町幕府奉行人連署奉書」吉川家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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