日本歴史地名大系 「立石村」の解説
立石村
たていしむら
立石村
たていしむら
- 大分県:別府市
- 立石村
〔中世〕
朝見郷に含まれ、永和元年(一三七五)九月二日の足利義満袖判下文(大友文書)によれば、大友親世に勲功の賞として与えられた六ヵ所の所領のうちに「同国朝見郷内立石村 古庄信濃守跡」があり、永徳三年(一三八三)七月一八日の大友親世所領所職等注進状案(同文書)には「同郷立石村付、鬼丸名」とある。記載の順からいうと同郷は
立石村
たてしむら
立石村
たていしむら
- 東京都:葛飾区
- 立石村
中川右岸に位置し、東対岸は奥戸村、西は
立石村
たついしむら
立石村
たていしむら
立石村
たついしむら
立石村
たていしむら
立石村
たていしむら
- 長野県:飯田市
- 立石村
現飯田市の南端、
立石村
たていしむら
- 佐賀県:鳥栖市
- 立石村
北部は
佐賀藩の藩政期には、地米(年貢)高は貞享四年(一六八七)改郷村帳で三九六石余、うち蔵入地七四石余、配分地三二一石余。嘉永六年(一八五三)写の大小配分石高帳では七配分士が知行している。
江戸時代末期の村の状態を文久二年(一八六二)の養父郡立石村諸業并竈人別帳についてみると、竈数一〇四(ほかに竈なし九、この中には寺院一、医師一が入るが、社人一は竈内)、身分は村田鍋島家の家来三、足軽一六、歩行三、配分士の家中一、被官一八、ほかは百姓。
立石村
たていしむら
立石村
たていしむら
立石村
たていしむら
- 高知県:土佐清水市
- 立石村
現土佐清水市東北端の村で、立石川の流域から河口にかけてを村域とし、西に
天正一七年(一五八九)の立石之村地検帳によれば検地面積五町四反余、屋敷数四、うち居屋敷三。末尾の「四至傍爾之事」には「布之村ト下萱ト境浜ハ牛ノ子ハヱ北ハ西ノ岸西ハクシ引ガトウ」と記す。小島出雲守の一筆を除き立石右京進の給地。ホノギに「タクミヤシキ」がみえる。慶長二年(一五九七)の秦氏政事記(蠧簡集)に立石浦刀禰がみえるが、江戸時代には浦方としての活動はみられない。
立石村
たていしむら
立石村
たていしむら
立石村
たていしむら
立石村
たていしむら
立石村
たていわむら
立石村
たていしむら
立石村
たていしむら
立石村
たていしむら
立石村
たていしむら
立石村
たていしむら
立石村
たていしむら
立石村
たていしむら
立石村
たていしむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報