竹の浦
たけのうら
大聖寺川河口、現塩屋町・吉崎町・大聖寺瀬越町・永井町に及んでいた入江で、近世以降、しだいに埋立てられた。「三州地理志稿」は橘村の北の海浜で「今其地名亡、疑塩屋中浜之地」と記す。「
憩紀聞」には「永井橋のほとりを竹の浦といふ」とあり、「江沼志稿」は竹の浦に属する村として吉崎・塩屋・瀬越・永井をあげ、入江には鹿島・蛇島・右島・中ノ島・大島があったが、鹿島のほかは川砂の堆積や埋立により田地となり、蛇島も名前だけが残ると記す。竹の浦は荻が繁茂し、雁・鴨・鷺などが群集する名所で、那谷寺(現小松市)の善寧や大聖寺の町人学者三輪三隠らが詠んだ句・歌がある。
竹の浦
たけのうら
撃方山の麓にある、古代の朝鮮渡海の泊地。「続日本紀」宝亀八年(七七七)正月二〇日条に「竹室之津」とみえ、同四年に以後は大宰府へ来航するように定められたため、同七年渤海国の使者都蒙らが南海府を出て対馬島のこの津に向かったが、海上で強風に遭い、漂流して越前国に着いたという。大浦の大地主神社由緒書(神社明細帳)に古くは竹ノ浦を竹室津と総称したとあるが、竹室は下県郡の竹敷(現美津島町)とする説が有力で、この竹敷も中世史料に竹ノ浦とあることから、対馬の南北二ヵ所に竹ノ浦があったことになる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 