日本歴史地名大系 「上県郡」の解説
上県郡
かみあがたぐん
対馬は古来より北部を
郡名の表記は上県で、その訓は「延喜式」にカムツアカタ(吉田本)、カムツカホリ(武田本)とあり、また同書民部省ではカンツコホリと付している。「和名抄」名博本ではカンツアカタとする。「拾芥抄」ではカムツアカタ、カミアカタ、カンカツ、「寛政重修諸家譜」では「かみあがた」とある。中世の上県郡域に古代の郷名を継ぐ中世的な郡が四郡あらわれ、宗氏の島内支配の単位を直接反映した。元禄一二年(一六九九)にこの郡名を郷名に変えるまで公的な郡として機能していた。したがってこの間、上県郡は消滅し、対馬島の北部方面という意で
〔古代〕
「日本書紀」顕宗天皇三年四月条に、対馬下県直が高皇産霊神の祠に侍すとあるところから、下県に対する上県もあったはずで、大宰府所管以前に上県・下県の称があったことになる。「続日本紀」神護景雲二年(七六八)二月五日条に対馬島上県郡とみえるのが郡名の早い例で、郡内の高橋連波自采女が夫やその父の死後もよくその墳墓を守った孝義に対して、終身の租を免じられた。現豊玉町
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報