吉崎(読み)よしさき

百科事典マイペディア 「吉崎」の意味・わかりやすい解説

吉崎【よしさき】

現在の福井県あわら市北部の地名。現在は一般に〈よしざき〉という。古くは奈良興福寺領(春日社一切経料所)越前国河口荘細呂宜(ほそろぎ)郷に属し,《大乗院寺社雑事記文明2年(1470年)7月14日条の〈河口庄郷々内村名〉に〈吉さき村〉とみえる。比叡山の迫害を受け,近江堅田本福(ほんぷく)寺(現大津市)などに身を寄せていた本願寺8世蓮如が1471年に下向,吉崎山(通称御山)に吉崎御坊(ごぼう)を創建して北陸地方教化の中心地となった。蓮如が当地を選んだ理由として,細呂宜郷の領主興福寺大乗院門跡経覚と蓮如との血縁関係,細呂宜郷別当和田本覚寺(現福井県永平寺町)の勧誘などが考えられる。吉崎山は標高32m余の低い丘であるが,三方を北潟湖に囲まれ,北東が加越国境の山地という要害の地で,御坊は城郭寺院的色彩が強かった。蓮如の吉崎滞留は4年2ヵ月ほどで,加賀国守護富樫政親の圧力が強まったことで1475年に退去する。しかし,この間に参集した門徒に仮名書の法語消息(御文)を与え,《正信偈(しょうしんげ)》,《三帖和賛(さんじょうわさん)》を開板するなど布教に努めた。その結果北陸一帯に本願寺教団が急速に形成され,一向一揆蜂起の基盤が整えられた。蓮如退去後の吉崎御坊は和田本覚寺などが維持したが,1506年の北陸一揆で破却。1670年代の再建時に東西両派が争ったため,現在山上は共有地で,麓の吉崎浦浄土真宗本願寺派,東御堂に真宗大谷派の各吉崎別院がある。大谷派別院では毎年4月下旬から5月初めの10日間,〈吉崎御忌〉が開かれ,京都東本願寺から旧北国路を門徒の担ぐ輿で運ばれてきた蓮如の御影が開帳される。→蓮如仮名法語

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改訂新版 世界大百科事典 「吉崎」の意味・わかりやすい解説

吉崎 (よしざき)

福井県最北端にあるあわら市の一地名。中世には,奈良興福寺大乗院領の越前坂井郡河口庄細呂宜(ほそろぎ)郷下方久吉(あるいは吉久)名(みよう)に属する。吉崎は,〈ヨシサキ〉〈御山〉ともいわれ,古来から白山信仰の聖地となっていたらしい。1471年(文明3)7月本願寺蓮如が同地に下向した。蓮如の北陸下向は大谷破却,堅田大責(おおぜめ)などの山門の圧迫を避けるためで,父存如の代に帰参した,北陸一帯に勢力を有する越前和田本覚寺系の門流の支援を期待してのことであった。とくに吉崎を選んだのは,蓮如と大乗院経覚が姻戚関係にあり,細呂宜郷が経覚の隠居料所であったこと,また本覚寺が同郷別当職に補されており,当時北潟湖に注いでいた大聖寺川の対岸鹿(加)島に蓮如の四男蓮誓が坊舎をかまえていたことなどによる。吉崎は三方を北潟湖に囲まれ,唯一東北部分のみ山地と陸続きになっている,面積約2万m2の小丘で,吉崎山(通称御山)は標高32m余り。蓮如は,山頂をけずり,四間四面と伝えられる坊舎を建立して吉崎全体を館の一種,すなわち寺内にした。寺内には,馬場大道が通り,南大門(吉崎山より七曲りへ通ずる所に比定),北大門(東別院付近に比定)も設けられ,蓮如に近侍する側近の役宅や大坊主衆の詰所(多屋(たや))も次々建てられていった。しかし親鸞影像は当時近江の大津(本福寺門徒道覚道場,のち近松御坊)に安置されていたから,吉崎御坊は,時の宗主が一時滞留していただけで,本山になったわけではない。また,蓮如の滞留期間はわずか4年余りにすぎない。だがその間,北陸のみならず畿内・東海一帯からも多数の一向衆が参集,蓮如は彼らに次々とかな文字の法語消息(御文)を下付していった。1473年《正信偈和讃(しようしんげわさん)》を開版し,聖教(しようぎよう)・典籍類の選択的統一を推し進めた。74年7月には多屋衆を中心とする北陸最初の一向一揆が勃発した。戦国期の政治史上に吉崎が名をとどめるのはそのためである。

 蓮如は75年8月吉崎を退去し,河内出口へ移った。吉崎御坊は,その後本覚寺蓮光・蓮恵,あるいは光教寺蓮誓により護持されていったが,1506年(永正3)の一揆のとき,朝倉氏は領国内の一向衆を追放,そのため吉崎の坊舎も破却され,廃坊となった。近世,山上の旧跡への坊舎建立をめぐり本願寺(西)派と大谷(東)派が争ったが,ともに許されず,のちに吉崎山東麓に現在の東西両別院が建てられた。山上は共有地となっている。本願寺派別院の門は,西本願寺から移した門で,豊臣秀吉寄進の〈念力門〉と称されている。大谷派別院で執行される〈吉崎御忌〉には,毎年東本願寺から蓮如の御影が運ばれてきて,北国の風物詩ともなっている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「吉崎」の意味・わかりやすい解説

吉崎
よしざき

福井県北部、あわら市の一地区。石川県境、北潟(きたがた)湖北部の東岸に位置する。中世は興福寺領河口庄細呂宜郷(かわぐちのしょうほそろぎごう)の地で、1471年(文明3)本願寺8世蓮如(れんにょ)が坊舎を建立し吉崎御坊の寺内町(じないまち)として発展した。

[編集部]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「吉崎」の意味・わかりやすい解説

吉崎
よしざき

福井県北部,あわら市北端の地区。文明3 (1471) 年本願寺8世蓮如によって開かれた吉崎御坊の寺内町。蓮如が北潟湖に臨む小丘の上に寺を築き布教を始めると,加賀,越中,越前から門徒が移り住むなど,人々が集まり一大法城となった。しかし,わずか3年後の文明6 (1474) 年失火にあい,さらに仮坊舎も翌年朝倉経景に焼かれた。現在では東西両本願寺のそれぞれの別院の門前町。毎年4月末からの蓮如忌 (御忌) には参拝者でにぎわう。吉崎御坊跡は史跡。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「吉崎」の解説

吉崎
よしざき

戦国期,越前国坂北郡にあった真宗の寺内町(じないまち)。現在の福井県あわら市。奈良興福寺大乗院領河口荘細呂宜(ほそろぎ)郷内にあたる。領主が類縁関係にあったことなどから,蓮如は1471年(文明3)ここに入る。加越国境の交通の要衝で,周辺の国々から門徒が集まり発展した。加賀国の武士勢力に押されて75年に退去。加賀一向一揆と朝倉氏との対立が深まり,1506年(永正3)破却された。

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旺文社日本史事典 三訂版 「吉崎」の解説

吉崎
よしざき

福井県坂井郡金津町の一地区で,室町中期,越前の吉崎道場(御坊)の寺内町
1471年蓮如 (れんによ) がこの地に布教所(御坊)を設けて北陸門徒の拠点としたが,蓮如の退去後衰えた。

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世界大百科事典(旧版)内の吉崎の言及

【一向一揆】より

…68年(応仁2)には山門勢力は門徒の湖西の拠点堅田を襲撃し(堅田大責),門徒を含む住民はしばらく沖ノ島に逃れる。蓮如は難を避けて,大谷から近江を経て北陸に赴き,71年(文明3)加賀との国境に位置する越前吉崎に御坊を建立して,ここを中心に北陸の布教を本格化した。ここに,吉崎を中心とする北陸の教線が飛躍的に伸張する。…

※「吉崎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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