出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…1767年(明和4)17歳で米沢藩主となった。治憲襲封以前の米沢藩政は動揺が激しく,宝暦年間(1751‐64),森平右衛門が郡代として藩政の実権をにぎったが,新政半ばにして菁莪社中のクーデタによって暗殺され,治憲の藩主就任とともに,奉行竹俣当綱(まさつな)を中心とする藩政改革が開始された。改革は長期にわたったが,第1期は明和・安永の改革で,治憲が直接藩主の座にあった時期である。…
… 米沢藩では宝暦末年,郡代森平右衛門が財政の再建と農村の復興のために支配機構の改革などを試みたが,藩政内部の対立で失敗した。そのあとに断行した明和・安永の改革は,新藩主に15歳の治憲(鷹山)を迎え竹俣当綱(まさつな)を中心とする改革派グループによって進められた。その内容は大倹約令にはじまり,これまでの御用商人との縁を切ること,農村をはじめ領内各地に漆,楮(こうぞ),桑をそれぞれ100万本植えること,また縮織の技術を導入し,藩校興譲館を創設したことなどである。…
…だから,大名を補佐する執政に恵まれるとき,藩政の再構築を目ざす藩政改革がみられることになる。この典型としては,肥後熊本藩54万石を受け継いだ第6代細川重賢(しげかた)と家老堀勝名の関係,陸奥会津藩28万石の第5代松平容頌(かたのぶ)と家老田中玄宰との関係,そして,出羽米沢藩15万石の第10代上杉治憲(はるのり)(鷹山)と改革派を代表する竹俣当綱(たけのまたまさつな)との関係をあげることができよう。 上杉治憲が名君の典型であったことはよく知られているが,彼は日向国高鍋藩主秋月氏の次男として生まれ,部屋住上がりの辛酸をなめていた。…
… 1755年(宝暦5),下級藩士の扇動による城下打ちこわし事件があり,60年に北条郷の青苧騒動が起こっている。このころ,側役から郡代頭取となって権力をにぎった森平右衛門が新政を実施したが,譜代層の非難をあび,63年江戸家老の竹俣当綱(たけのまたまさつな)によって誅殺された。67年(明和4)上杉治憲(鷹山)が上杉家第10代を家督し,藩政改革を実施した。…
※「竹俣当綱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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