デジタル大辞泉
「芳沢あやめ」の意味・読み・例文・類語
よしざわ‐あやめ〔よしざは‐〕【芳沢あやめ】
[1673~1729]歌舞伎俳優。初世。紀伊の人。元禄期(1688~1704)の上方を代表する名女方。芸談に「あやめ草」がある。
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よしざわ‐あやめ【芳沢あやめ】
- 歌舞伎俳優。初世。紀州の人。大坂道頓堀の色子から俳優になる。所作より地芸に秀で、元祿期(一六八八‐一七〇四)の代表的女方。芸談に「あやめ草」がある。延宝元~享保一四年(一六七三‐一七二九)
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芳沢あやめ (よしざわあやめ)
歌舞伎役者。(1)初世(1673-1729・延宝1-享保14) 前名吉沢あやめ。元禄(1688-1704)初年には若女方で出演の記録が見え,以後京,大坂の舞台でしだいに認められ,1698年(元禄11)《傾城浅間嶽(けいせいあさまがたけ)》の傾城三浦の好演で,この年若女方上上吉に進む。上方の女方四天王の一人と称され,1711年(正徳1)歌舞伎役者として初めて極上上吉の位を与えられた。13年冬から1年間江戸に出演,このときの《女楠天下太平記(おんなくすのきてんがたいへいき)》の芸は《浅間嶽》とともに終生の当り芸となり,翌年極上上吉無類,それより三ヶ津惣芸頭(さんがのつそうげいがしら),三国無双,日本第一,三ヶ津極無類(さんがのつごくむるい)など空前の位を与えられた。しかし21年冬,芳沢権七と改名して立役に転じたのは失敗で,1年後女方芳沢あやめに復帰した。所作より地芸にすぐれ,実の女の情を表現しようと努めて,歌舞伎の写実的な地芸を成長させた功は大きい。晩年の芸談を集めた《あやめぐさ》は女方の心得を説く貴重な文献となった。(2)2世(1702-54・元禄15-宝暦4) 初世の長男。前名芳沢崎之助。1729年(享保14)襲名。若女方で極上上吉に至った。(3)3世(1720-74・享保5-安永3) 初世の四男。前名2世芳沢崎之助。1764年(明和1)襲名。若女方で極上上吉に至った。以後あやめの名跡は文化年間(1804-18)の5世まで続いた。
執筆者:松崎 仁
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芳沢あやめ(初代)
没年:享保14.7.15(1729.8.9)
生年:延宝1(1673)
初代坂田藤十郎と共に元禄期を代表する歌舞伎役者。本姓斎藤。前名橘屋権七,吉沢あやめ。俳名春水。屋号橘屋。5歳で父と死別,道頓堀の色子に売られ綾之助と名乗る。丹波国亀山(姫路市)の郷士橘屋五郎左衛門に寵愛され,役者としての基礎訓練を受ける。のち水島四郎兵衛の食客となり初代嵐三右衛門に師事。その没後は山下半左衛門の門下となり,次第に人気を得た。元禄10(1697)年の評判記で位付けが若女形上上吉となる。翌11年正月布袋屋座上演の傑作「傾城浅間岳」の傾城三浦が高く評価され,女形として確固たる地位を築いた。宝永期(1704~11)に入り競争相手の荻野沢之丞の死亡,水木辰之助の隠退もあって女形の第一人者となり,三ケ津惣芸頭,三国無双などの称号を冠せられた。49歳の享保6(1721)年に芳沢権七の名で立役に転じたが好評は得られず,翌年女形に戻った。 所作事(舞踊)よりも地芸(演技)にすぐれ,地味で着実な演技で没年まで若女形を勤め,日本女形の開山と尊敬された。歌舞伎を写実的な演劇として発達させた功績者のひとり。その芸談『あやめぐさ』は,写実に徹した女形演技論としてきわめてすぐれる。57歳で没したのち,長男が2代目あやめを継ぎ,4男が3代目を継いだ。文化期まで5代を数えるが,5代目のみすぐれる。現在この名跡は絶えている。<著作>『あやめぐさ』(今尾哲也『役者論語評註』)<参考文献>高野辰之『日本演劇史』3巻,伊原敏郎『近世日本演劇史』
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芳沢あやめ
よしざわあやめ
(1673―1729)
歌舞伎(かぶき)俳優。初世。代々若女方(わかおんながた)で文化(ぶんか)年間(1804~18)の5世まであるが、初世がとくに有名。初世坂田藤十郎と並び称される、元禄(げんろく)年間(1688~1704)の上方(かみがた)歌舞伎の代表的名優で、女方芸の確立者として演劇史に名を残した。1698年(元禄11)初世中村七三郎の巴之丞(ともえのじょう)役で初演した『傾城浅間嶽(けいせいあさまがだけ)』の三浦の役は一代の当り役だった。彼の芸談を集めた『あやめ草』(『役者論語(やくしゃばなし)』収載)は、単に芸談というだけでなく、若女方の修業や日常生活における心得などを説いているのが興味深く、かつ貴重である。冒頭の「女形は傾城さへよくすれば、外(ほか)の事は皆いたしやすし。……男の身にて傾城のあどめもなく、ぼんじやりとしたる事は、よくよくの心がけなくてはならず。……」の一文は、女方芸術についてしばしば引用される著名なものである。なお、2世(1704―54)は初世の長男が、3世(1720―74)は同じく四男が継いでいる。
[服部幸雄]
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芳沢あやめ(1世)
よしざわあやめ[いっせい]
[生]延宝1 (1673)
[没]享保14 (1729)
歌舞伎俳優。元禄期の名女方。本姓斎藤。その芸談『あやめ草』によれば,大坂道頓堀で色子(いろこ)綾之助として丹波亀山の郷士橘屋五郎左衛門の世話を受け,1世嵐三右衛門に役者として取り立てられ,五郎左衛門の家名とその替名権七をもらって芸名とした。若衆方から立役,のち女方となった。初め吉沢,やがて「吉」の字を「芳」に改めた。元禄11(1698)年の『けいせい浅間嶽』の三浦はあたり役で,正徳1(1711)年京都夷座座本。享保2(1717)年「三ヶ津惣芸頭」という最高芸位を得た。芸の体はまったく女なりと評され,地芸に秀で愁嘆のせりふが上手で,観客を泣かせたという。長男(元禄15〈1702〉~宝暦4〈1754〉)が 2世芳沢あやめを襲名,明和1(1764)年四男(享保5〈1702〉~寛政4〈1774〉)が 3世となった。二男は山下又太郎で立役,三男は 1世中村富十郎で宝暦期の名女方。
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芳沢あやめ【よしざわあやめ】
歌舞伎俳優。上方(かみがた)の女方として5世まで続いたが,初世が最も有名。初世〔1673-1729〕は初め若衆方から立役(たちやく)を勤め,のち女方となり,ことに傾城(けいせい)役を得意とし,元禄期の三都(江戸・大坂・京都)を通じ随一と賞された。その言行を記した《あやめ草》は,女方の芸談として名高い。
→関連項目役者論語
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芳沢あやめ(初代) よしざわ-あやめ
1673-1729 江戸時代前期-中期の歌舞伎役者。
延宝元年生まれ。色子(いろこ)から若衆方をへて女方となる。所作より地芸にすぐれ上方歌舞伎の女方芸を確立した。元禄(げんろく)11年初演の「傾城浅間岳(けいせいあさまがたけ)」の傾城三浦が当たり役。芸談「あやめぐさ」は女方の修業や心得を説いている。享保(きょうほう)14年7月15日死去。57歳。姓は斎藤。初名は橘屋権七。前名は吉沢あやめ,吉沢菊之丞,芳沢権七。俳名は春水。屋号は橘屋。
【格言など】相手をそこなわぬようにするというは 我が当りをと心がけぬことなり(「あやめぐさ」)
芳沢あやめ(4代) よしざわ-あやめ
1737-1792 江戸時代中期の歌舞伎役者。
元文2年生まれ。2代芳沢あやめの養子。はじめ初代山下又太郎,のち2代芳沢あやめの門人となり芳沢五郎市を名のり若女方となる。安永7年4代あやめを襲名。三都の舞台をつとめ,世話物,女房役を得意とした。寛政4年9月28日死去。56歳。大坂出身。初名は山下市五郎。前名は芳沢万代(2代),芳沢崎之助(3代)。俳名は湖海,春水。屋号は橘屋。
芳沢あやめ(5代) よしざわ-あやめ
1755-1810 江戸時代中期-後期の歌舞伎役者。
宝暦5年生まれ。3代芳沢あやめの子。明和3年大坂で色子(いろこ)として初舞台をふみ,のち若女方。安永年間,京坂で座本をつとめ,女方の大立者(おおだてもの)となる。文化4年5代あやめを襲名。傾城(けいせい)役を得意とした。文化7年8月26日死去。56歳。前名は芳沢いろは(初代)。俳名は香蒲,巴紅,一鳳。屋号は橘屋。
芳沢あやめ(3代) よしざわ-あやめ
1720-1774 江戸時代中期の歌舞伎役者。
享保(きょうほう)5年生まれ。初代芳沢あやめの4男。京都で兄(のちの2代芳沢あやめ)の名をついで2代芳沢崎之助を名のり若女方となる。明和元年3代あやめを襲名。安永3年11月18日死去。55歳。初名は芳沢万代(初代)。俳名は一鳳。屋号は橘屋。
芳沢あやめ(2代) よしざわ-あやめ
1702-1754 江戸時代中期の歌舞伎役者。
元禄(げんろく)15年生まれ。初代芳沢あやめの長男。若衆方から女方に転じ,享保(きょうほう)14年2代あやめを襲名。宝暦4年7月18日死去。53歳。前名は芳沢崎之助(初代)。俳名は春水。屋号は橘屋。
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芳沢あやめ
よしざわあやめ
1673~1729.7.15
歌舞伎俳優。元禄~享保期の京坂の名女方。俳名春水。屋号は橘屋。1698年(元禄11)に演じた「傾城浅間嶽(けいせいあさまがたけ)」の傾城三浦が出世役となり,享保期には空前の格づけを与えられた。写実的な地芸にすぐれ,女方芸の大成者とされる。芸談集「あやめぐさ」は著名。芸名は文化期の5世まで伝えられる。2世・3世は初世の長男と四男。4世は初世の次男山下又太郎の門弟で2世の養子となった。5世は3世の子。いずれも各時代を代表する女方。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
芳沢あやめ
よしざわあやめ
(初代)1673〜1729
江戸中期の歌舞伎俳優。名女方
屋号は橘屋。元禄期(1688〜1704)に若女形 (わかおやま) となり,傾城 (けいせい) 事を得意とした。1717年,当時の俳優最高位「三ケ津惣芸頭 (がしら) 」に初めてなった。語録『あやめ草』はその芸談で,元禄期上方歌舞伎界を知るのに貴重な史料。
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世界大百科事典(旧版)内の芳沢あやめの言及
【女方(女形)】より
…1629年(寛永6)に徳川幕府が歌舞伎に女優が出演することを禁じたため,能以来の伝統によって男性が女の役をつとめ,現在に至る。女方の演劇的基礎は初期の芳沢あやめ,瀬川菊之丞によって作られた。2人とも日常生活を女性のように暮らし,これが幕末まで女方の習慣となった。…
【歌舞伎】より
…一般的にいって,元禄歌舞伎では写実的な芸が重んじられた。その趨勢の中で,芳沢あやめらによる女方芸の完成が果たされたのである。[敵役](かたきやく)や[道外方](どうけがた)の芸が確立し,重んじられたのも注目すべきことである。…
【千両役者】より
…江戸時代,それぞれの役者は11月から翌年10月までの1年間契約で劇場の専属となったが,その給金が1000両の高額に達した者を千両役者という。その最初は正徳・享保期(1711‐36)の初世[芳沢あやめ]や2世[市川団十郎]といわれる。その後それ以上の高給の役者も出たが,一般には金額にかかわらず,最も格式の高い役者,最高の人気役者,技芸抜群の役者,またそれらを総合したすぐれた役者をいう。…
※「芳沢あやめ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」