竹富村(読み)てーどうんむら

日本歴史地名大系 「竹富村」の解説

竹富村
てーどうんむら

[現在地名]竹富町竹富たけとみ

竹富たけとみ島全域を占める村。石垣方言ではタキドゥンとよび、島ではテードゥンという。両島絵図帳では島内の村は、はさま(玻座真)(一九石余)中筋なーじ(仲筋)(一八石余)、はれはか(波利若)(一四石余)三村で、石垣いしやなぎい間切に属した。崇禎元年(一六二八)の三間切制移行時の書上(八重山島年来記)には石垣間切「たけとミ村」がみえ、この時までに前記三村は合併して竹富村となったが、玻座真はざま(玻座間とも)と仲筋の名はその後も小村名として残った。有名な「安里屋節」は玻座真村の安里屋(屋号)の娘クヤマが目差(役職名)から言寄られたが、それを拒んだ。すると目差主は南隣の仲筋村に行って美女イシケマを探し出し、玻座真と仲筋との中間にあるンブフルの石畳坂道を大喜びで戻ってきたという内容の歌。仲筋村の対語はフンカドゥ(国角)、玻座真村の対語は親村うやむらで、玻座真村が親村と謡われるのは竹富村番所が置かれたからである。玻座真村は「玻座間口説」に「八重に成り立つ玻座間島」と謡われる。竹富村役人は初め竹富与人・竹富目差と称していたが、竹富与人に不幸が続いたため、与人は康熙三三年(一六九四)に玻座真与人と改称、目差も雍正七年(一七二九)玻座真目差と称するようになった(八重山島年来記)。順治八年(一六五一)の人数二〇九人、康熙五〇年西表いりおもて島南部の仲間なかま村への寄百姓があり(同書)、生れは竹富、育ちは仲間の真栄まざかいは、年貢の糯米・白米が欲しくて海を越えたと謡う「真栄ゆんた」は当時を謡ったものという。雍正一一年には百姓七四人が耕地不足のため石垣島崎枝さきだ(現石垣市)への寄百姓を要請、これを受けて翌一二年、在番・頭らが崎枝村のうち屋良部やらぶ崎への移住を申請し、同年屋良部村を立て崎枝村所管とすることが認められた(参遣状)

乾隆二年(一七三七)の調査報告(参遣状)によると竹富村は南北二六町・東西一六町余、人口一千七一人で、村番所のある玻座真村(人口七一三人)とその南の仲筋村(人口三五八人)の二小村からなり、風気はよいが石の多い平地で畑地は人口に比して少なく、家の材木も石垣島・西表島などから伐り出した。翌三年食料不足を解消するため、石垣島川平かびいら(現石垣市)所管の桴海ふかい(現同上)に一五〇人を寄百姓したいと申請したが実現せず、同一八年同島北部の安良やつさ(現同上)の村立てに際し二〇〇人を寄百姓している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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