竹貫村(読み)たかぬきむら

日本歴史地名大系 「竹貫村」の解説

竹貫村
たかぬきむら

[現在地名]古殿町竹貫

現古殿町の中央西寄り、阿武隈高地を流れるさめ川中流の埋れ谷に立地。同川北岸沿いに御斎所ごさいしよ街道が通る。中世には石川庄に属し、高貫(鷹貫・竹貫)郷と称した。石川一族の竹貫氏が拠ったこまヶ城(古館)跡・うしヶ城(新館)跡がある。両城は尾根伝いに連絡し、古館は現在稲荷神社境内地で外郭とみられる削平地がある。新館は標高四三三メートルの山頂にあり、土塁・空堀の残痕がある。徳治二年(一三〇七)八月一八日の旦那相論和与状(熊野那智大社文書)に「石河一門内河尻方竹貫七郎」とみえ、紀州熊野の先達職を幸秀と浄湛が争ったが、河尻方は幸秀知行とすることで和解した。元亨三年(一三二三)の北条貞時十三年忌供養記(円覚寺文書)に馬一疋を貢進した「石川高貫弥五郎」がみえる。建武元年(一三三四)結城上野入道道忠(宗広)は、北畠顕家から石川庄のうち「鷹貫・坂地・矢沢三ケ郷」を与えられ(同年四月六日「陸奥国司下文案」伊勢結城文書)、同二年六月二一日この三ヵ郷を子親朝に譲っている(「譲状」白河証古文書)。明徳五年(一三九四)、竹貫参河四郎光貞は石川郡よし(現玉川村)領有を大寺安芸入道道悦と争っている(同年七月一日「吉良貞家書下案」白河証古文書)。寛正三年(一四六二)石川一族の竹貫別当と結城白川氏方の八槻別当(現棚倉町八槻の都々古別神社別当)が石川一門の熊野参詣先達職を争ったが、竹貫別当が譜代からの所持として認められている(九月二四日「本宮衆徒下知状」熊野那智大社文書)


竹貫村
たかぬきむら

[現在地名]日高町竹貫

上石あげし村の西、八代やしろ川の左岸に位置する。江戸時代の領主変遷は天保七年(一八三六)までは宵田よいだ村に同じ。同年幕府領となり(「御用部屋日記」など)幕末に至る。慶長一八年(一六一三)の小出吉英所領目録(金井文書)に村名がみえ、高一三〇石余。寛永一六年(一六三九)の知高帳では一三六石余。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図では高一三〇石余。元禄八年(一六九五)の免相下作之帳(上坂家文書)では高一七三石余。出石封内明細帳でも同高(拝領高一三〇石三斗余・改出高四三石四斗余)内訳は屋敷高四石五斗余・麻畑高二斗余・田高一三六石三斗余・畑高三二石六斗余、ほかに古新発高三斗余・新発高二石一斗余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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