石川庄(読み)いしかわのしよう

日本歴史地名大系 「石川庄」の解説

石川庄
いしかわのしよう

平安時代後期から鎌倉時代にかけて河内石川源氏の所領として伝領された庄園。建永二年(一二〇七)七月八日の僧深慶某寺領注進状(正木直彦氏所蔵文書)に引く康治二年(一一四三)の注文に「河内国石川庄 源義領河内国石川東条田畠事」として石川郡東条内の杜屋・旦妻・櫟田・神田・又神田・切山・六・三島・木屋・鏡田・鴨入・早安・依置・季兼・管田・下戻杜・妻安・戸・斤重(斤立)・谷戸・古戸・宗田・六田・楊田・竹立・三百田・道多良・杜田・小洞・田古・荒木・山下・田本とよばれていた里と、そのほかに大森開発・布恵などの字地があげられており、その全面積は七〇町余に達する。里名の検証は困難であるが、元慶七年(八八三)九月一五日の観心寺勘録縁起資財帳(観心寺文書)にみえる仲村なかむら庄の六条鏡田里と重なり、同じく杜屋もりや庄の五条杜屋里と重なると思われる。杜屋は現千早赤阪ちはやあかさか村の森屋もりや切山きりやまは同村桐山きりやま仲村庄は現河南かなんなか一帯と考えられ、石川の支流千早川流域の河南町を中心とし、千早赤阪村・富田林とんだばやし市にも及んでいたと推定される。

多田源氏源満仲の子頼信が長元三年(一〇三〇)平忠常の乱を鎮圧したのち河内守となり石川東岸壺井つぼい(現羽曳野市)に居館を設けたと伝え、以来子孫五代にわたって河内守に任ぜられ(尊卑分脈)河内源氏として勢力を張った。国守任命の時期については徴証を得ないが、永承元年(一〇四六)には頼信は河内守であった(同年「河内守源頼信告文案」石清水文書)。頼信は永承三年に死去。これより先、長久四年(一〇四三)九月、源頼信の子頼義は居館南側に観音堂を建立、これがのちの通法つうほう寺であるが(羽曳野市の→通法寺跡、頼信の跡を継いだ頼義は、石川郡内に所領を拡大するかたわら、観音堂への田地(四町三反)の寄進を行い、これを免田ないし浮免田とし、国衙からの賦課を逃れていた(「通法寺興廃記」増本家蔵)。頼義は承保二年(一〇七五)に死去、その墓は観音堂の傍らに営まれているが、その子義家も度々田地を寄進している。寛治五年(一〇九一)六月、義家と弟義綱とが京都においてあわや武力衝突という事態が発生し、朝廷では緊急に対策を練るほどの大事件となった(「後二条師通記」同年同月一一日・一二日条)

石川庄
いしかわのしよう

正安四年(一三〇二)の室町院御領目録(八代恒治氏蔵文書)の「金剛勝院領」のうちに「院御分大和国石川庄」とある。金剛勝こんごうしよう(現京都市)は鳥羽天皇皇后美福門院(藤原得子)が康治二年(一一四三)に建立した祈願寺であり、石川庄は美福門院から同院に寄進された荘園の一と考えられる(領家)。その所在は未詳であるが、荘号からみると現石川町と一応考えられる。「大乗院雑事記」の文明六年(一四七四)六月一三日条の「池田・井殿庄相論」図の池田庄の南に「石川庄」とみえる。

石川庄
いしかわのしよう

現長野市篠ノ井石川の一帯。御室の仁和にんな寺領で、後に八条院領となった。現川柳の上石川せんりゆうのかみいしかわ・下石川はこの石川庄のなごりで、ひじり川の流れに沿って上下に分けられた。

聖川は更級さらしな郡第一の標高である聖山に源を発して北方に流れ、現長野市信更しんこう町の谷間を潤し、上石川西方に至り、更にこの上石川・下石川・二ッ柳ふたつやなぎ等各地域の水田を潤し、古くからの条里的遺構を残している。荘域の南は四宮しのみや北条きたじように接し、東は建武三年一二月の市河親宗着到状(市河文書)布施ふせ御厨中条なかじよう郷の名がみえるから、今の国鉄篠ノ井駅西方の中条集落に比定され、方田ほうだの辺りまでと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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