日本大百科全書(ニッポニカ) 「米よこせ運動」の意味・わかりやすい解説
米よこせ運動
こめよこせうんどう
1932年(昭和7)東京を中心に行われた政府米低価格払下げ運動。日本無産者消費組合聯盟(れんめい)(日消聯)と傘下の関東消費組合聯盟(関消聯)が呼びかけたもの。請願署名や陳情デモなどの大衆行動を背景に対政府交渉を行い、戦前の無産運動のなかでは一定の成果をあげた運動として注目される。恐慌下の当時、東京では失業者が続出、弁当を持ってこられない「欠食児童」が増える一方、豊作で政府手持米は増大していた。1932年6月6日、東京・三河島(みかわしま)で、失業者や主婦約400人が町長に「二、三日飯を食わぬから食わせろ」と迫ったことを、日本共産党の機関紙『赤旗(せっき)』が報道、「飢餓(きが)勤労民に米をよこせ!」と訴えた。これを契機に、日消聯が「政府払下米獲得闘争方針」を決定、関消聯とともに労働組合や農民組合、借家人組合など広範な団体に呼びかけて6月20日懇談会(大衆団体懇談会)を開催した。そこで請願署名の方針が決定され、7月2日の国際消費組合デーには、署名を携えた代表四十数人が農林省に陳情、さらに7月下旬には地域有志も加わった「東京地方米よこせ会」が発足して、「米よこせ」のスローガンが定着した。指導部は、満州事変による戦争拡大が国民生活を圧迫していることを訴え、国際反戦デーにちなんだ8月1日に約400人のデモで農林省を包囲、乳児を背負った婦人ら代表が幹部と交渉、ついに政府米6000俵の低価格払下げを実現させた。払下げ資金については河上肇(はじめ)や岩波茂雄ら文化人の協力も寄せられた。東京での運動は、中心団体が治安維持法違反で弾圧されたため下火になったが、1935年まで全国各地で同様な運動が行われた。戦後、運動を記念する「米よこせ母子像」(白石寛作「食」)が再建され、東京・渋谷の生協会館内に収められている。
[米田佐代子]
『山本秋著『昭和米よこせ運動の記録』(1976・白石書店)』