米子城(読み)よなこじよう

日本歴史地名大系 「米子城」の解説

米子城
よなこじよう

観応三年(一三五二)一月の佐藤元清軍忠状案(佐藤文書)に、

<資料は省略されています>

とあり、足利尊氏方の小笠原氏の軍が足利直義方の諏訪直頼及び代官禰津宗貞と善光寺・米子城に戦っている。

米子村に米子城の地名はないが、背後の山、前面の峡谷に囲まれた集落自体をさすか不詳。山城は北端蓑堂みのどう山の東端東城ひがしじよう切木戸きりきど、西の塩野しおの村に西にしじようがある。この間は柱状節理の岩脈で郭造成は不能である。ここを塩野村では宇坪うつぼ城という。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本の城がわかる事典 「米子城」の解説

よなごじょう【米子城】

鳥取県米子市久米町にあった平山城(ひらやまじろ)。安土桃山時代に西伯耆(鳥取県)支配のための支城として吉川(きっかわ)家が築城。国指定史跡。築城年代は明らかではないが、戦国末期以降の中世の砦から始まるといわれる。米子城を近世城郭にしたのは西伯耆・東出雲(島根県)・隠岐を領した吉川広家(ひろいえ)で、西伯耆支配の拠点支城として1591年(天正19)に築城を開始した。完成をみないまま1600年(慶長5)関ヶ原の戦いの後、広家は岩国に移封された。伯耆17万石余の領主として中村一忠(かずただ)が入城し、広家の築城工事を受け継いだ。完成した米子城は五重の天守閣と四重の小天守をもつ豪壮な規模のものであった。1609年(慶長14)、一忠は20歳で病没し中村家は断絶した。中村氏のあとは加藤貞泰(さだやす)、池田由成(よしなり)と交代し、1632年(寛永9)以降は、池田家主席家老の荒尾成利(あらおなりとし)が1万5000石で領し、明治維新まで代々荒尾家が在城した。明治初期に城は解体され、本丸・二の丸などの石垣が残っている。現在城郭の一部が湊山公園となっている。JR山陰本線米子駅からバス、医大前または久米町下車。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の米子城の言及

【伯耆国】より

…なお南北朝・室町期の伯耆では,羽衣石南条氏や守護山名氏などの保護を得て,禅宗寺院が大きな勢力を振るったことが注目される。【井上 寛司】
【近世】
 1600年(慶長5)関ヶ原の戦の結果,いずれも西軍方であった河村・久米・八橋3郡の支配者,羽衣石城主南条元続は改易に,汗入・会見・日野3郡の支配者,米子城主吉川広家は周防国への転封に処せられた。そのあと伯耆国6郡18万石を領有する中村忠一が米子城主として入封,重臣横田村詮(内膳正)の補佐によって,城郭・城下町の整備を行ったが,09年忠一の病死後改易された。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」