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安達泰盛 あだちやすもり

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

安達泰盛
あだちやすもり

[生]寛喜3(1231)
[没]弘安8(1285).11.17. 鎌倉
鎌倉時代中期の武将。上野,肥後の守護。義景の子。母は小笠原時長の娘。建長5 (1253) 年引付衆,翌年秋田城介となる。康元1 (56) 年評定衆,弘安5 (82) 年陸奥守となって城介を子宗景に譲った。

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デジタル大辞泉の解説

あだち‐やすもり【安達泰盛】

[1231~1285]鎌倉中期の武将。秋田城介引付衆評定衆などを歴任して勢威を誇ったが、内管領平頼綱と争い、一族とともに滅んだ。

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百科事典マイペディアの解説

安達泰盛【あだちやすもり】

鎌倉時代の武将。景盛の孫。義景の子。引付衆,秋田城介(じょうのすけ),評定(ひょうじょう)衆となり,幕政上重要な地位を占めた。1282年秋田城介を子宗景に譲り,のち出家。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

安達泰盛 あだち-やすもり

1231-1285 鎌倉時代の武将。
寛喜(かんぎ)3年生まれ。安達義景(よしかげ)の子。秋田城介(じょうのすけ)をつぎ,評定衆,越訴(おっそ)奉行などをつとめ,祖父景盛(かげもり)以来つづく幕政の実権をにぎった。弘安(こうあん)7年出家し,仏典刊行や高野山参道の町石建立につくす。のち内管領(うちかんれい)の平頼綱(よりつな)と対立,8年11月17日霜月騒動で死去。55歳。通称は城九郎。法名は覚真。

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朝日日本歴史人物事典の解説

安達泰盛

没年:弘安8.11.17(1285.12.14)
生年:寛喜3(1231)
鎌倉中期の武将。父は義景。母は小笠原時長の娘。妻は北条重時の娘。法名は覚真。邸宅は鎌倉の甘縄。建長5(1253)年に鎌倉幕府引付衆。翌6年に秋田城介(北辺鎮衛司令官の官職名)を継承する。康元1(1256)年に引付頭人・評定衆となり文永1(1264)年から同4年まで新設の越訴奉行。同9年以降没するまで肥後国守護。著名な『蒙古襲来絵詞』の竹崎季長の訴えを鎌倉の邸宅で聞くシーンは,建治1(1275)年の恩賞奉行時の姿である。文永3年の将軍・宗尊親王追放の合議に加わり,弘安年間(1278~88)には北条氏が占有していた陸奥守にあったように幕府の中枢に位置した。源家相伝の名剣を保持し,実朝の後室・八条禅尼から京都西八条遍照心院の保護を委ねられるなど源氏との繋がりが深かった。弓馬に優れ,御所昼番衆の番文を清書するなど書も達者で,世尊寺経朝から『心底抄』を伝授されているのは,鎌倉の書風の世尊寺流書道への傾斜のきっかけとなった。宗教面では,高野山の檀越のひとりとして参詣道の整備と町石造営を援護し奥院に後嵯峨天皇供養の石碑を建立し,高野版の開板事業を行った。信仰面では,弘安3年に甘縄無量寿院で法爾上人から伝法灌頂を受けて同7年に出家。対立する内管領平頼綱の讒言により同8年の霜月騒動で一族もろともに滅ぼされた(霜月騒動)。泰盛と運命を共にした藤原茂範の弟・相範は泰盛の学問の師ともみられる。霜月騒動により得宗専制体制が固定していくこととなった。<参考文献>多賀宗隼「秋田城介安達泰盛」(『論集中世文化史』上)

(福島金治)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

あだちやすもり【安達泰盛】

1231‐85(寛喜3‐弘安8)
鎌倉中期の武将。城九郎ともいう。義景の三男。母は小笠原時長の娘。1244年(寛元2)に14歳で上野の御家人を引率して上洛,京都大番役の番頭を務めているから,このときすでに上野守護だったと思われる。47年(宝治1)6月5日,祖父景盛の命で三浦氏を攻撃し,宝治合戦を起こさせた。53年(建長5)6月,父の死後,2兄をさしおいて安達一族の惣領となり,同年12月22日引付衆に就任。54年12月父の跡を受けて秋田城介に任じ,56年(康元1)4月引付頭。

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大辞林 第三版の解説

あだちやすもり【安達泰盛】

1231~1285) 鎌倉時代の武将。秋田城介・引付衆・評定衆などを務めたが、1285年11月、外孫北条貞時が執権の時、内管領平頼綱の讒言ざんげんによって一族が討伐された(霜月騒動)。

出典|三省堂
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

安達泰盛
あだちやすもり
(1231―1285)

鎌倉中期の武将。父は義景(よしかげ)、母は小笠原(おがさわら)時長の女(むすめ)、初め城九郎を称す。1254年(建長6)から秋田城介(あきたじょうのすけ)となり、1282年(弘安5)には陸奥守(むつのかみ)を兼ねる。将軍頼嗣(よりつぐ)に仕える。執権北条時頼(ときより)の信頼も厚く、引付衆(ひきつけしゅう)、評定(ひょうじょう)衆に列す。また北条重時(しげとき)の女を妻とし、自分の女を時宗(ときむね)の妻とするなど、北条氏(得宗(とくそう)家)との婚姻関係を濃密に結んでいる。蒙古(もうこ)襲来の難局には、執権時宗を助けて、評定衆、恩沢奉行(おんたくぶぎょう)として幕政に参画し、肥後国守護として防石塁築造に努めた。時宗が死に、その子貞時(さだとき)(泰盛の孫)が執権になると、御家人(ごけにん)保護を目的とする改革を次々に打ち出したが、得宗家の家人(御内人)勢力との対立が深まり、弘安(こうあん)8年11月に一族、縁者とともに討たれた。[山本隆志]
『網野善彦著『日本の歴史 10 蒙古襲来』(1974・小学館)』

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世界大百科事典内の安達泰盛の言及

【弘安合戦】より

…弘安8年(1285)11月17日に安達泰盛一族与党が滅亡した事件。霜月騒動,安達泰盛の乱,秋田城介の乱ともいう。…

【高野版】より

…用紙は厚手の鳥の子紙を用い,表裏に印刷し,装丁はおおむね粘葉(でつちよう)形を採用した。開版者としてとくに知られる秋田城介(あきたのじようのすけ)(安達泰盛,1231‐85)は,鎌倉執権北条氏の姻戚として勢力をもち,祖父景盛以来の縁故で高野山にはいり,その金剛三昧院(こんごうさんまいいん)は10万余石の扶持を封禄し,武家の愛護のもとに偉大な勢力をもって,開版事業にも力をつくした。現存するものでは1253年(建長5)刊《三教指帰(さんごうしいき)》が最も古い。…

【得宗】より

…また得宗,一門の諸国守護職占取も進み,とくにモンゴル襲来を契機として西国,九州に増加し,全国の過半数を占めるにいたった。 85年(弘安8)11月の弘安合戦で外様の代表安達泰盛一族とその与党が滅びるや,内管領平頼綱の専権が樹立された。この時点を得宗専制成立と見る説が有力だが,すでに御内専制に変質していたともいえる。…

【外様】より

…鎌倉時代,幕府の実権を握った北条氏得宗家の被官が御内人(みうちびと)と呼ばれたのに対して,将軍家に直属する一般御家人は外様御家人と呼ばれた。鎌倉時代後期には御内人と外様御家人の対立が深刻となり,前者の代表である平頼綱と後者の代表である安達泰盛が衝突した事変は,1285年(弘安8)の弘安合戦として著名である。室町時代以後は大名の家格を示す呼称として用いられ,外様衆とは幕府と疎遠な関係にある大名の称号となった。…

【二月騒動】より

…しかし事件後,時章は謀反計画に無関係であったことが判明し,その討伐は誤りであったとして討手は処刑され,時章の子公時は所領を安堵された。この事件の結果,討伐された時章が保持していた筑後,肥後,大隅の各守護職,時輔が保持していた伯耆の守護職は時宗政権が手に収めた後有力御家人に分与され,一方,騒動の事後処理を主導した安達泰盛は幕府中枢部での実権を一段と強化し,外様の代表として,平頼綱ら御内人勢力との対立をしだいに深めていった。【新田 英治】。…

【蒙古襲来絵詞】より

…これには永仁元年(1293)2月9日という日付が書かれているが,正応から永仁への改元は8月5日であり,この日付は後世に記されたものである。この絵詞はモンゴル襲来の基本史料の一つであると同時に,舞台となった博多付近の景観や竹崎季長の人物,鎌倉幕府の有力者安達泰盛の人物を知るうえでも貴重なものである。このほか,当時の武家故実,合戦法,兵器などについても知ることができる。…

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