鎌倉中期の武将。城九郎ともいう。義景の三男。母は小笠原時長の娘。1244年(寛元2)に14歳で上野の御家人を引率して上洛,京都大番役の番頭を務めているから,このときすでに上野守護だったと思われる。47年(宝治1)6月5日,祖父景盛の命で三浦氏を攻撃し,宝治合戦を起こさせた。53年(建長5)6月,父の死後,2兄をさしおいて安達一族の惣領となり,同年12月22日引付衆に就任。54年12月父の跡を受けて秋田城介に任じ,56年(康元1)4月引付頭。同年6月23日評定衆を兼ね,64年(文永1)10月から67年4月まで越訴奉行(おつそぶぎよう)であった。弓,馬,鞠,書などにすぐれ,執権北条時宗の信頼もあつく,1266年6月20日には,のちに〈寄合衆〉に発展する得宗私邸での重要秘密会議に出席し,北条政村,金沢実時と将軍宗尊親王廃立を議している。72年以降74年までの間に肥後の守護となり,弘安の役の際には恩沢奉行として,竹崎季長などの行賞にあたった。82年(弘安5)7月14日陸奥守を兼ねたが,同年10月秋田城介を子の宗景に譲った。84年4月北条時宗の死にさいして出家,覚真と称した。娘が時宗に嫁して生んだ貞時が得宗を継ぎ,執権となったので,得宗外戚ということになり,若年の貞時を補佐して幕政の実権を握り,84年5月20日新制38ヵ条を制定するなど,その施政には見るべきものがあった。
このころ,北条氏得宗家の権力掌握につれて,その家臣団は御内(みうち)として一定の勢力を得,幕政に関与することが多くなり,一般御家人は外様(とざま)と呼ばれて,しだいに力を失いつつあった。外様御家人の代表のごとき地位にあった泰盛は,北条泰時以来の伝統を守り,得宗貞時を中心として北条一門,有力外様御家人の会議の上に幕政を運営しようとする立場をとったが,御内人勢力の代表内管領平頼綱は,ひたすら得宗御内の利益と権力を追求する立場をとったので,対立が生じていた。両人ともに貞時に讒言(ざんげん)し合ったが,妻が貞時の乳母であった頼綱のほうが有利で,泰盛の息宗景が源家を詐称して将軍の地位をうかがったとする頼綱の讒言が奏功し,ついに85年11月17日,泰盛は一族与党とともに貞時の討手に滅ぼされた。これを弘安合戦という。このとき,頼綱が軍勢動員の権限のある侍所所司だったことも,御内人勢力勝利の一因であった。政敵泰盛を倒した頼綱は,これを好機として,武蔵,上野の外様御家人をも殺したので,乱は常陸,信濃,三河,美作,因幡に及び,筑前の岩門(いわと)合戦をも引き起こしている。このときをもって〈得宗専制〉が確立し,頼綱を中心とした御内人勢力が幕政を壟断(ろうだん)して恐怖政治を敷いたが,93年(永仁1)頼綱自身も貞時に殺された。また泰盛は仏書刊行や高野山の町石建立に尽力したことでも有名。
執筆者:奥富 敬之
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(福島金治)
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鎌倉中期の武将。父は義景(よしかげ)、母は小笠原(おがさわら)時長の女(むすめ)、初め城九郎を称す。1254年(建長6)から秋田城介(あきたじょうのすけ)となり、1282年(弘安5)には陸奥守(むつのかみ)を兼ねる。将軍頼嗣(よりつぐ)に仕える。執権北条時頼(ときより)の信頼も厚く、引付衆(ひきつけしゅう)、評定(ひょうじょう)衆に列す。また北条重時(しげとき)の女を妻とし、自分の女を時宗(ときむね)の妻とするなど、北条氏(得宗(とくそう)家)との婚姻関係を濃密に結んでいる。蒙古(もうこ)襲来の難局には、執権時宗を助けて、評定衆、恩沢奉行(おんたくぶぎょう)として幕政に参画し、肥後国守護として防石塁築造に努めた。時宗が死に、その子貞時(さだとき)(泰盛の孫)が執権になると、御家人(ごけにん)保護を目的とする改革を次々に打ち出したが、得宗家の家人(御内人)勢力との対立が深まり、弘安(こうあん)8年11月に一族、縁者とともに討たれた。
[山本隆志]
『網野善彦著『日本の歴史 10 蒙古襲来』(1974・小学館)』
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1231~85.11.17
鎌倉中・後期の武士。父は義景,母は伴野時長の女。通称城九郎。得宗(とくそう)の外戚の家に生まれ,幕政の中心にあった。1256年(康元元)評定衆となり,さらに越訴奉行・肥後国守護・秋田城介(じょうのすけ)などにつく。元寇の際には御恩奉行として御家人の恩賞の審査にあたった。84年(弘安7)得宗北条時宗の死後は,内管領(ないかんれい)の平頼綱とともに新得宗の北条貞時を補佐し,弘安徳政とよばれる政治改革を推進。やがて頼綱と対立,85年頼綱の訴えをいれた貞時の命により,謀反の疑いありとして攻め滅ぼされた(霜月(しもつき)騒動)。
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…弘安8年(1285)11月17日に安達泰盛一族与党が滅亡した事件。霜月騒動,安達泰盛の乱,秋田城介の乱ともいう。…
…用紙は厚手の鳥の子紙を用い,表裏に印刷し,装丁はおおむね粘葉(でつちよう)形を採用した。開版者としてとくに知られる秋田城介(あきたのじようのすけ)(安達泰盛,1231‐85)は,鎌倉執権北条氏の姻戚として勢力をもち,祖父景盛以来の縁故で高野山にはいり,その金剛三昧院(こんごうさんまいいん)は10万余石の扶持を封禄し,武家の愛護のもとに偉大な勢力をもって,開版事業にも力をつくした。現存するものでは1253年(建長5)刊《三教指帰(さんごうしいき)》が最も古い。…
…また得宗,一門の諸国守護職占取も進み,とくにモンゴル襲来を契機として西国,九州に増加し,全国の過半数を占めるにいたった。 85年(弘安8)11月の弘安合戦で外様の代表安達泰盛一族とその与党が滅びるや,内管領平頼綱の専権が樹立された。この時点を得宗専制成立と見る説が有力だが,すでに御内専制に変質していたともいえる。…
…鎌倉時代,幕府の実権を握った北条氏得宗家の被官が御内人(みうちびと)と呼ばれたのに対して,将軍家に直属する一般御家人は外様御家人と呼ばれた。鎌倉時代後期には御内人と外様御家人の対立が深刻となり,前者の代表である平頼綱と後者の代表である安達泰盛が衝突した事変は,1285年(弘安8)の弘安合戦として著名である。室町時代以後は大名の家格を示す呼称として用いられ,外様衆とは幕府と疎遠な関係にある大名の称号となった。…
…しかし事件後,時章は謀反計画に無関係であったことが判明し,その討伐は誤りであったとして討手は処刑され,時章の子公時は所領を安堵された。この事件の結果,討伐された時章が保持していた筑後,肥後,大隅の各守護職,時輔が保持していた伯耆の守護職は時宗政権が手に収めた後有力御家人に分与され,一方,騒動の事後処理を主導した安達泰盛は幕府中枢部での実権を一段と強化し,外様の代表として,平頼綱ら御内人勢力との対立をしだいに深めていった。【新田 英治】。…
…これには永仁元年(1293)2月9日という日付が書かれているが,正応から永仁への改元は8月5日であり,この日付は後世に記されたものである。この絵詞はモンゴル襲来の基本史料の一つであると同時に,舞台となった博多付近の景観や竹崎季長の人物,鎌倉幕府の有力者安達泰盛の人物を知るうえでも貴重なものである。このほか,当時の武家故実,合戦法,兵器などについても知ることができる。…
※「安達泰盛」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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