結城城跡(読み)ゆうきじようあと

日本歴史地名大系 「結城城跡」の解説

結城城跡
ゆうきじようあと

[現在地名]結城市結城 本町など

鬼怒きぬ川・川によって形成された沖積低地西の、標高四二メートルの島状台地上に築かれた天然の要害。北と東は半円形に蛇行する田川に取囲まれている。南北朝期以降に結城氏が築城したと考えられ、永享一二年(一四四〇)の結城合戦の舞台として登場している。結城合戦の数年後に成立したとされる「結城戦場記」には「彼結城ノ城ト申ハ、天然形勝ノ地、要害ノ便有、兵粮卓散ニテ、籠所ノ人々ハ一騎当千ノ兵ナレハ、力セメニハ落難シ」、長享二年(一四八八)の「鎌倉殿物語」には「彼結城城申、二方大河流テ、有堀、底深奈里不知、清水湛最深、水上切岸ハ卅余丈也、其上、屏鹿垣誘、石弓櫓構、晋始皇帝、漢陽宮シテ、鉄築地四十余丈築、泉使禦給シモ、過之覚タリ、是無鴈門、鳥不翔、此城、結城七郎始、樊会長良欺程用士一千余騎、思切籠ケル、去程、無左右可落様不侍」とある。


結城城跡
ゆうきじようあと

[現在地名]国見町土黒 宮田

土黒ひじくろ川と土黒西ひじくろにし川に挟まれた丘陵(標高九四メートル)に築かれた中世以来の城の跡。史料上は金山かなやま城・平松ひらまつ城とも称される。一七世紀初頭に居城したキリシタン結城弥平治にちなみ結城城とよぶ。同氏は河内岡山おかやま(現大阪府四條畷市)城主の結城家に仕えたが、小牧長久手の戦で城主結城氏の戦死に伴い高山右近に従うようになり、天正一六年(一五八八)に小西行長が肥後国を領知するようになるとそれに随行している。慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の戦で小西氏が斬罪されたあと、肥後国矢部やべ(現熊本県矢部町)愛藤寺あいとうじ城城代であったが、有馬晴信に三千石の知行をもって迎えられ、同七年に当城主となって有馬領北方の警備を任せられた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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