日本大百科全書(ニッポニカ) 「総督巡撫」の意味・わかりやすい解説
総督巡撫
そうとくじゅんぶ
中国、明(みん)・清(しん)時代に地方鎮撫のために派遣された大官で、略して督撫ともいう。明代、外国との戦争あるいは内乱の際、臨時に中央から都察院都御史の肩書で大官を派遣して、軍民を統制させたが、やがて平時、内地にも常駐するようになった。清朝に至って総督巡撫は各省に常設され、省の長官のごとき観を呈した。
明代の省は、民政をつかさどる布政使(ふせいし)を長官とし、按察使(あんさつし)が司法をつかさどり、省が地方政府となって政治の運営にあたった。清代も名目的には布政使が省の長官であるが、その上に、天子の名代ともみるべき総督巡撫が派遣されて強大な権限を握り、布政使、按察使は実際にはその属官にすぎなくなった。
総督は通常、二省を管轄し、ときに一省の場合もあるが、両江総督だけは江蘇(こうそ)、安徽(あんき)、江西の三省を統制した。ほかに河道総督、漕運(そううん)総督のような特殊の任務をもったものもある。巡撫は一省を統率し、巡撫のみで総督の置かれない省もあった。
総督は主として軍務を、巡撫は主として民政をつかさどると称せられるが、実際にはその区別は判然とせず、重要な政務にはかならず合議する必要があり、権力を1人の手に握らせないのが中央のねらいであった。総督は都察院右都御史、巡撫は都察院右副都御史を兼任し、この肩書で互いに相手を弾劾することができた。総督は督標、巡撫は撫標という直属の軍隊を握り、事あれば相並んで省の軍隊を指揮する。
督撫の権力が絶大なため、清朝末期には各省がその下に半独立の形勢を呈した。義和団の乱の際、地方督撫が中央の意向に従わず、外国人迫害の詔にも同調しなかったことで、損害を最小に食い止めえたような利益も一方にはあった。
[宮崎市定]