日本歴史地名大系 「肥土庄」の解説
肥土庄
ひとのしよう
遺称地は不明であるが、土庄にちなむ名と思われ、現
源平合戦に際しての命禅の死去により、当庄根本領主の系統は絶えたかにみえるが、前掲系図によれば、禅基の兄禅覚の孫に紀家光がいる。この一族はもともと海氏である。一方、当庄の鎮守神として勧請されたと推測される肥土庄別宮八幡宮(富丘八幡神社)の縁起を記した応永元年(一三九四)頃成立の別宮八幡宮縁起(紀氏旧記・小豆島八幡宮縁起ともいう)には、弘安六年(一二八三)頃の公文として紀家能、応安七年(一三七四)の下司として紀家貞、そして縁起が作成されたときの執行紀家光など多くの紀氏一族の名がみえている。かれらに共通することはいずれも名前に「家」の一字を用いている点である。根本領主の子孫が現地で庄務をとる所職を相伝することは通例であるから、当庄の下司や公文などとして現れる紀氏一族を根本領主海氏の末裔とみることができよう。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報