肥土庄(読み)ひとのしよう

日本歴史地名大系 「肥土庄」の解説

肥土庄
ひとのしよう

遺称地は不明であるが、土庄にちなむ名と思われ、現渕崎ふちざき地区から肥土山ひとやま地区に至る一帯に比定される。治承二年(一一七八)六月一二日の後白河院庁下文案(石清水文書)によれば、当庄はもともと石清水少別当禅基の相伝私領であり、応保元年(一一六一)死去するまで知行していたが、その後、命禅より別当慶清が譲与を受けたという。禅基と命禅は、八幡祠官俗官并所司系図(石清水八幡宮記録)の海氏系図によれば親子であることが知られる。系図の注記によれば、当庄の根本領主は承保二年(一〇七五)に死去した山城石清水いわしみず八幡宮少別当の清基である。その後、当庄に関する記事はみえないが、領主の地位は清基の子孫に伝領されて禅基・命禅父子に至ったのであろう。応保元年、父禅基の死去により当庄の領主となった命禅は、その地位を保つため自らが所属する石清水社の別当慶清に、治承二年以前のある時点で寄進したのであろう。

源平合戦に際しての命禅の死去により、当庄根本領主の系統は絶えたかにみえるが、前掲系図によれば、禅基の兄禅覚の孫に紀家光がいる。この一族はもともと海氏である。一方、当庄の鎮守神として勧請されたと推測される肥土庄別宮八幡宮(富丘八幡神社)縁起を記した応永元年(一三九四)頃成立の別宮八幡宮縁起(紀氏旧記・小豆島八幡宮縁起ともいう)には、弘安六年(一二八三)頃の公文として紀家能、応安七年(一三七四)の下司として紀家貞、そして縁起が作成されたときの執行紀家光など多くの紀氏一族の名がみえている。かれらに共通することはいずれも名前に「家」の一字を用いている点である。根本領主の子孫が現地で庄務をとる所職を相伝することは通例であるから、当庄の下司や公文などとして現れる紀氏一族を根本領主海氏の末裔とみることができよう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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