胡惟庸(読み)こいよう(その他表記)Hú Wéi yōng

改訂新版 世界大百科事典 「胡惟庸」の意味・わかりやすい解説

胡惟庸 (こいよう)
Hú Wéi yōng
生没年:?-1380

中国,明の政治家。定遠安徽省)の人。1355年(至正15)起兵間もない朱元璋洪武帝)の軍に参加し,明朝成立後は楊憲にかわって洪武帝の信頼をえ,中書省参知政事から左丞,右丞相を歴任し,77年(洪武10)には左丞相となった。時に中書省内では比ぶものなく,李善長と姻戚関係を結ぶ一方,敵対者を排撃するなど権力をほしいままにしたが,占城からの朝貢使節の入朝を上聞しなかったことから帝の怒りにふれ,80年謀反を計画したかどで処刑され,多くのものが連座した(胡惟庸の獄)。謀反については捏造(ねつぞう)の疑いもあるが,これを契機に中書省が廃止され皇帝独裁体制が強化された。
胡藍の獄
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「胡惟庸」の意味・わかりやすい解説

胡惟庸
こいよう
Hu Wei-yong; Hu Wei-yung

[生]?
[没]洪武13(1380).南京
中国,明初の政治家。定遠 (安徽省定遠県) の人。元末,和州 (安徽) で太祖 (→洪武帝 ) のもとに投じ,のち左丞相にまで上った。太祖の信任厚く,右丞相汪広洋が左遷されたのちは,ほとんど政務の一切を独断専行。しかも勢力が次第に増大すると,御史大夫陳寧らと結んで謀反をはかり,部下を日本へつかわし,元の遺族ともよしみを通じて外部の力を借りようともしたが,一党のと節 (とせつ) が密告したため事前に事が漏れ逮捕,処刑された。連座した者は3万に及んだといわれる。これ以後中書省は廃止され,皇帝独裁権は一層高まった。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「胡惟庸」の意味・わかりやすい解説

胡惟庸
こいよう
(?―1380)

中国、明(みん)初の政治家。元(げん)末、朱元璋(しゅげんしょう)の反乱軍(紅巾(こうきん)軍)に参加、明帝国が成立するや、昇進を重ね、1377年には最高位の左丞相(さじょうしょう)になった。初め太祖(朱元璋)の信任も厚かったが、左丞相に就任以後、専横が甚だしく、太祖を殺し権力を奪取しようと企てたといわれる。80年この計画が露見したため、胡惟庸をはじめ1万5000人が処刑された(胡惟庸の獄)。この事件を機に、太祖は中書省を廃し、六部(りくぶ)を皇帝に直属させた。

[山根幸夫]

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世界大百科事典(旧版)内の胡惟庸の言及

【胡藍の獄】より

…中国,明朝洪武時代(1368‐98)の胡惟庸(こいよう)と藍玉にまつわる二つの疑獄事件をあわせた呼称。1380年(洪武13)中書省左丞相胡惟庸は謀反のかどで処刑され,御史大夫陳寧ら多くのものが連座した。…

※「胡惟庸」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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