中国,華中平野の中央に位置する省。面積約14万km2。人口5900万(2000)。6地区,10直轄市から成り,省都は合肥。省域は淮河(わいが),長江(揚子江)の中下流域にまたがる。東は江蘇,南は浙江・江西,西は湖北・河南,北は山東の各省と接する。略称は皖。
南西の湖北省との境には大別山地があり,それより派出する霍山(かくざん)が北東に低く延び断続的につづく丘陵群(江淮丘陵)を形成する。山地より丘陵に移行する南側は陥没地となり,中央に巣湖(面積820km2)がある。この大別山地から江淮丘陵に至る線で,省域は北部の淮河流域と南部の長江流域に二分される。淮河流域はまた淮河以北と以南で土地の条件を異にする。淮北は北西へ延びる支流が発達し,河南省に入って黄河本流近くまで達する。かつては黄河の本流がこちらへ向かっていたときもあり,歴史時代でも金代,明代には潁河(えいが)や渦河のところに本流があった。そのためこの地域は厚い黄土の沖積土で覆われる。淮河は気候的にみても年降水量900mmの線とほぼ一致し,上記の土地条件とあわせて,淮北には半乾燥の土壌が発達し畑作に適する。淮南は丘陵がせまり支流は短いが,湿潤な沖積平野が発達し水田に適する。
省の南部は長江が南西より北東に貫流し,両岸流域に広く沖積平野が形成される。その主要な部分を占めるのは巣湖を中心とする平野で,省の中心となり,省都合肥もこの一郭にある。長江の沿岸では北岸に広い低湿な平野をもち,竜感湖,大官湖などの浅い湖沼が多くみられる。南岸は山地が近くまでせまり,吉陽磯,白石磯など,歴史上有名な要害が並んでいる。しかし銅陵を過ぎるあたりより南岸にも平野が開け,江蘇省につながる。古くはこの低地を長江が太湖の方へ貫流していたという考えもある。これらの長江流域の平野は省でもっとも重要な農業地域で,治水が施されて安定した水田となっている。
南部の山地は九華山(1342m),黄山(1841m)などの山塊から成り,浙江・江西との境の天目山地につづく。山地の内部は河谷に沿って小盆地が開け,とくに銭塘江の上流である新安江のつくる屯渓盆地は広く,浙江・江西にまたがる交通上の要衝の地であった。
このような地勢は歴史や産業の展開と密接な関係をもつ。とくに淮河はいわゆる南船北馬といわれる中国の南と北を区別する線として重要で,半乾燥と湿潤という環境の差は畑作と水田という農業形態の相違をもたらし,それは中国の歴史を動かす一つの要素となった。三国時代,南北朝時代,五代十国時代,南宋時代など,中国全体が分裂していたときは,ほぼこの線が境界になることが多く,付近の要衝の都市は必ず争奪が繰り返される地となった。したがってこの地域を中心に新しい勢力が出現すれば,南北の既存の勢力をおびやかす力をもち得た。また北方の中心が中原や開封付近にあるときには,淮河の支流を経て,長江下流に至るルートは南北交通の主要路となり,江・淮の間にある地域は一方では北方の影響を受け,他方で南方の影響圏にもあり,両者の接触し交易する地域として繁栄した。この基本的性格は新石器時代にすでにみることができ,明代に,より東の沿海部に大運河が開通し,南北交通の主要路が移動するまで変わらなかった。
新石器時代の文化としては,北部に黄河下流域と同じ竜山文化がみられ,淮河付近まで影響がみられる(寿県など)。東部の江蘇との省界付近には,山東から浙江まで広く分布する青蓮崗文化の遺跡が多くあり,淮河・長江下流域に一つのまとまった文化圏が形成されていたと考えられる。続いて江蘇西部を中心に出現する湖熟文化が,滁県(じよけん),馬鞍山市などで発見され,南方系の文化圏の影響もしだいに浸透しつつあった。しかし北方のすすんだ殷周文化の影響も強く,省の最南端部でも西周様式の墳墓が発見されているほどである(屯渓市など)。このころには江淮地域に鍾離,六,巣,舒,桐,州来などの小さな封国が成立しており,中原からは淮夷(わいい)や百越と呼ばれる文化の遅れた異民族の居住地とみなされていた。
春秋戦国時代には大国による併合がすすみ,淮河流域は楚に併合され,その範囲はしだいに南方へ拡大した。戦国末期,秦の侵入を受けた楚は都を寿春に移し郢(えい)と称したが,現在の寿県付近には楚の遺跡が多く,丘家花園で発見された鄂君敬節(がくくんけいせつ)は,古代楚国の状況を知るうえで貴重な金石史料である。これに対し長江流域は呉の影響圏にあり,江・淮の間で両国が衝突を繰り返した。伍子胥(ごししよ)の楚王に対する仇討はその中での有名なエピソードである。
→寿県古墓
秦・漢の全国統一により,この地域にも郡国が置かれ,淮河以南の開発がいっそうすすめられる。古い起源をもつ寿春邑,舒県,六県などは南方での重要な都市となり,とくに寿春は渦河が淮河と合流する地点にあり,中原と南方を結ぶ要衝として繁栄した。後漢末,江淮地区に跳梁し,中央に対抗して小国家を建てた袁術のよったのも寿春であった。漢の統一が破れ,三国・南北朝時代に入り,北方異民族の中原への侵入で,漢民族がすすんだ文化をもって南方へ多量に移住した結果,南方の経済・文化は大いに開発された。同時に江淮地域は南北両国家の衝突するところとなり,要地をめぐって攻防が繰り返された。その中でも廬州(合肥)の位置はもっとも重要で,三国時代,魏がここを固守したため呉の北方進出は成功しなかった。
唐・宋を通じて江南の農業生産力は,北方に比べて飛躍的に発展し,それにともなう商工業の発達は,高い中心性をもつ都市を出現させる。それは同時にこれらの都市を中核とするまとまりのある地域の形成に結びつき,行政領域の編成にも影響を与える。唐初には全国が10道に分けられ,淮河以北は河南道,江・淮の間は淮南道,長江以南は江南道に属するが,安史の乱以後の節度使の割拠するときには,各道とも,徐泗,浙西,浙東,宣歙(せんしよう)などに細分されていった。これは,地方的なまとまりが,しだいに実質的な形をとってきたことを示す。宋代の行政区画である路も,この方向を確認するものといえよう。また唐・宋間の五代十国時代,北の後梁に対する呉や,後晋に対する南唐などは,江都(揚州)や江寧(南京)を国都として,長江中・下流域から淮河に至る版図をもち,長江下流デルタを中心としたまとまりを実現した。
このまとまりを全国的な行政領域として確定したのが明である。明は南京に都を置くとその周囲を国都の直轄地(直隷)として,他の行政区(布政使司)と区別した。のちに北京に都が移されてからもこれは南直隷として残され,その境域は江蘇・安徽両省の原型となった。清も当初は明の南直隷を引き継ぎ江南省と名を改めただけであったが,1662年(康煕1)安慶,徽州など9府4州を分割して,新しい巡撫(省の長官)の支配下に置いた。治所は安慶にあり,安徽の名も安慶・徽州(歙県)の両頭字をとったものである。しかし安徽と江蘇の結びつきは深く,むしろ安徽は江蘇の後背地としての性格を強くもっていた。それには明代に新しくできた北方の中心北京とを結ぶ大運河が開通し,その結果蘇州や杭州など江・浙の都市が繁栄し,江・淮のルートがとり残されたことが大きく影響している。加えて,淮北の地域は黄河の洪水を受けて荒廃し,省の中心も南へ片寄っていた。
アヘン戦争以後,長江流域の都市は各条約によって開港し,安徽でも蕪湖が1876年(光緒2)の芝罘(チーフー)条約で開港した(安慶は条約で開港が定められたが実現しなかった)。沿岸の都市が下流の大都市と結んで産業の近代化をすすめたのに対し,内陸地域の開発は遅れた。しかし清末より民国時代にかけて内陸でも津浦線(天津~浦口),淮南線(蚌埠(ぼうふ)~裕渓口)などの鉄道が建設され,それによって蚌埠,淮南などの新しい都市も生まれた。荒廃地の多かった淮北でも,集中的に治水灌漑工事が行われ,新しい農業基地にしようとする努力が続けられてきた。
全省は6地区(宿県,巣湖,宣城,池州,六安,阜陽)と10直轄市(合肥,淮南,淮北,蕪湖,銅陵,蚌埠,馬鞍山,安慶,黄山,滁州)から成り,その中に10市58県を含む。人口の83%が農業人口で,省全体の生産額の中で農業生産額の占める率は1/3に近く全国平均よりかなり高く,工業開発のおくれた農業主体の地域である。淮北は小麦を主体とする畑作,淮南は水稲と小麦の二毛作,長江流域は水稲の二期作や綿花などとの輪作が行われる。全省で水稲の栽培面積は217万ha(1993),小麦は208万haでほぼ半ばする。その他,イモ類,大豆,油料作物,綿花,茶などが主要な農産物である。また内水面が多いところから淡水漁業もさかんである。
鉱産資源は省内の山地の大部分が古い地層であるため,工業の基礎となるような石炭や鉄鉱石などに乏しく,その他の非鉄金属などを産するのみである。やや産出量の多いのは淮北市,淮南市の石炭,馬鞍山市,繁昌県の鉄鉱石,銅官山の銅,鳳台県のリン,定遠県のセッコウなどである。このような条件のもとで,従来はほとんど工業が発達していなかったが,改革開放以後,沿海地区の発達に影響を受け,とくに長江中下流域経済圏の一角として工業化が進みだした。その中心になっているのは馬鞍山の製鉄業で,同じく長江沿岸にある蕪湖,銅陵,安慶などにも重化学工業が展開している。また省北部でも,淮北,淮南に石炭鉱業,電力工業があり,省全体としてはむしろ重工業に比重が移っている。安徽は不安定な自然条件と天然資源の乏しさから,華北,華東においては最も貧しい地域とされ,他地域への人口流失の多いところであった。しかし改革開放以後の経済発展戦略の中で,沿海地区に次ぐ重点地域とされ,中央からの集中的投資も行われ,次第に貧困地域というイメージから抜け出そうとしている。大別山地は全国レベルでも貧困地区に指定されている経済開発の遅れた地域であるが,果樹栽培などの農業開発を進めるとともに,梅山や仏子嶺にダムが造られ,電力開発と淮南地域の治水が企てられている。
安徽は内陸にあるため,とくに北部の開発には鉄道交通が欠かせないが,前述の幹線路の他,1971年濉阜(すいふ)線(徐州~阜陽)が開通し,淮北開発の一端を担っている。また津浦線は1968年に南京大橋によって寧銅線(南京~銅陵),滬寧(こねい)線(上海~南京)と結ばれ,武漢大橋と並んで鉄道による南北結合を実現した。淮南線も裕渓口から対岸の蕪湖と船で結ばれているが,現在長江を渡る橋を建設中である。また観光資源としては南部の山岳地帯は風光明媚なところとして知られ,九華山の化城寺のように唐代以来仏教の聖地として栄えた山岳寺院も多い。江・淮の各地には三国時代・南北朝時代の古跡が多く,文芸にもうたわれている。
執筆者:秋山 元秀
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
「アンホイ(安徽)省」のページをご覧ください。
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